暴走族条例と合憲限定解釈の補足意見と反対意見のやりとり。の巻

まいど。
にーやんです。

公法の論文対策やってます。


どうでもいいけど、堀井雄二ゲームクリエイター)と市川正人(憲法学者)って似てるなぁ〜。顔だけじゃなくて、人の良さみたいなとこも。


ということで、広島県の暴走族条例と合憲限定解釈に関する判例について復習しておりました。

憲法学者の多くが、藤田反対意見を高く評価していたので、あまりじっくり読まない補足意見や反対意見を読んでみた。
補足意見では、①限定解釈ができる!って点を強く主張している。
加えて、②合憲限定解釈によっても規制対象になる本件について、不明確性を問題にして違憲主張を認めて無罪ならしめることは妥当でないという実際上の価値判断も垣間見ることができる(堀籠幸男は補足意見で、「罰則規定の不明確性、広範性を理由に被告人を無罪とすることは、国民の視点に立つと、どのように映るのであろうかとの感を抱かざるを得ない」という)。
しかし、①ついては、定義規定があるにもかかわらず、そこを離れて解釈するという多数意見の解釈は、かなりテクニカルであることに疑いはなく、むしろ条例の定義規定を素直に読めば、多数意見のような限定解釈はできないといえる。少なくとも、一般国民の理解において、そのような限定解釈によって導かれた基準は読みとることは困難だろう。このことは、藤田反対意見で次のように述べる。
「多数意見のような解釈は、……条例が制定された具体的な背景・経緯を充分に理解し、かつ、多数意見もまた『本条例がその文言どおりに適用されることになると、規制の対象が広範囲に及び、憲法21条1項及び31条との関係で問題があることは所論のとおりである』と指摘せざるを得なかったような本条例の粗雑な規定の仕方が、単純に立法技術が稚拙であることに由来するものであるとの認識に立った場合に、初めて首肯されるものであって、法文の規定そのものから多数意見のような解釈を導くことには、少なくとも相当の無理があるものと言わなければならない。」と指摘している。
補足意見の限定解釈が可能という主張に対しては、反対の解釈も可能であるという点を看過している点で、やはり合憲限定解釈は要件(税関検査訴訟(百75事件)で示された合憲限定解釈の要件)のうち第2要件を満たさないといえる。
そうすると、②については、「過度の広範性の故に処罰根拠規定自体が違憲無効であるとされれば、被告人は、違憲無効の法令によって処罰されることになるのであるから、この意味において、本条例につきどのような解釈を採ろうとも被告人に保障されている憲法上の正当な権利が侵害されることはないということはできない」ので、違憲主張を認めて無罪とせざるを得なかったケースだといえる。
②については、田原睦夫の反対意見も参考になる。
那須弘平の補足意見では、「一般国民は限定解釈により本条例が違憲無効とされることなく存続することによって……表現の自由の保障に無関心な社会が到来するのではないかという懸念による心理的な『萎縮』の被害を受ける可能性が考えられないではないが、他方で暴走族の被害を予防できるというより現実的な利益を受けることを期待できる。これらのことを考慮すれば、利益考量の点からも、限定解釈をすることが適切妥当であると考える」と言う。
しかし、「本条例によって保護されるのは、市が管理する公共の場所を利用する公衆の漠とした『不安』、『恐怖』にすぎず、他方規制されるのは、人間の根源的な服装や行動の自由、思想、表現の自由であり、しかもそれを刑罰の威嚇の下に直接規制するものであって、その保護法益ないし侵害行為と規制内容の間の乖離が著しい」ことからすると、「本条例の保護法益ないし侵害行為と規制内容は、合理的均衡を著しく失している」という田原睦夫の反対意見が説得的と言わざるを得ない。


合憲限定解釈の可否についての補足意見と反対意見のやりとりは、痴漢冤罪事件のやりとりに似ていると思った。
合理的な疑いを入れる余地があるかどうかが問題となったわけで、ここではその余地が見いだすことができるかどうかの問題とされた。
無罪推定の原則からすれば、犯罪事実の不存在の可能性があり、しかもそのことが説得力を持つ場合、すなわち「合理的な疑いを入れる余地」があり得る以上は無罪とすべきなわけで、合憲限定解釈の問題もこの点が似ている。この判断は、「犯罪事実の存在が高度の可能性をもって認められる」ということは問題ではなく、「犯罪事実の不存在の可能性」の有無だけが問題となる。なぜなら、「犯罪事実の不存在の可能性」がある以上、合理的な疑いを入れる余地はあるのであって、したがって、無罪推定の原則からは無罪の結論を出す以外ないから(もちろん経験則に照らして判断されるが)。


税関検査訴訟では、合憲限定解釈の要件として、「一般国民の理解において、具体的場合に当該表現物が規制の対象となるかどうかの判断を可能ならしめるような基準をその規定から読みとることができるものであること」が必要とされる。
そうすると、多数意見のような解釈が可能だとしても、それには逆の解釈もまた可能でかつ説得的であれば、もはや一般国民の理解において規制対象の基準を規定から読みとることができるとはいえまい。そんな2通りの解釈のうち1つの解釈を正しく選択することなんて一般国民にできるわけないわけで、最高裁の判断の出ないうちならなおさらだ。無茶を強いる最高裁であると言わざるを得ない。


それにしても、基本書読むより、補足意見とかを読む方が論文対策になるなぁ。

■暴走族条例と合憲限定解釈(最判平19.9.18刑集61・6・601)

裁判官堀籠幸男、同那須弘平の各補足意見、裁判官藤田宙靖、同田原睦夫の各反対意見

裁判官堀籠幸男の補足意見は、次のとおりである。

 私は、多数意見に全面的に賛成するものであるが、反対意見の趣旨にかんがみ、本件に関する私の意見を述べることにする。
1 本件は、指定暴力団の関係者で暴走族である観音連合の面倒見をしていた被告人が、判示の広場において、引退式と称する集会を強行して暴走族の存在を誇示しようと考え、観音連合などの暴走族構成員約40名と共謀し、判示のような服を着用し、顔面の全部又は一部を覆い隠し、円陣を組み、旗を立てる等の威勢を示して、公衆に不安又は恐怖を覚えさせるような集会を行い、市長からの中止・退去命令が出されたのに、これに従わなかった事案である。被告人の本件行為は、本条例が公共の平穏を維持するために規制しようとしていた典型的な行為であり、本条例についてどのような解釈を採ろうとも、本件行為が本条例に違反することは明らかであり、被告人に保障されている憲法上の正当な権利が侵害されることはないのであるから、罰則規定の不明確性、広範性を理由に被告人を無罪とすることは、国民の視点に立つと、どのように映るのであろうかとの感を抱かざるを得ない。
2 一般に条例については、法律と比較し、文言上の不明確性が見られることは稀ではないから、このような場合、条例の文面を前提にして、他の事案についての適用関係一般について論じ、罰則規定の不明確性を理由に違憲と判断して被告人を無罪とする前に、多数意見が述べるように、本条例が本来規制の対象としている「集会」がどのようなものであるかをとらえ、合理的な限定解釈が可能であるかを吟味すべきである。確かに、集会の自由という基本的人権の重要性を看過することは許されず、安易な合憲限定解釈は慎むべきであるが、条例の規定についてその表現ぶりを個々別々に切り離して評価するのではなく、条例全体の規定ぶり等を見た上で、その全体的な評価をすべきものであり、これまで最高裁判所も、このような観点から合憲性の判断をしてきているのである。そうであれば、本条例については、多数意見が述べるように、合理的限定解釈が可能であるから、そのような方向で合憲性の判断を行うべきであり、これを違憲無効とする反対意見には同調することができない。 
3 本条例1条から19条までを通読し、これを全体的に見てみると、本条例の目的は、社会通念上の暴走族の追放を目的としたものであり、その他のことを目的としたものではないことを十分に読み取ることができる。
 加えて、本条例が処罰対象としている行為は、16条に該当する行為一般ではなく、17条の規定による市長の命令に違反した行為だけである。そして、この市長の命令に関する本条例の委任規則である本条例施行規則2条は、市長の留意事項として、基本的人権を制限する等の権限の逸脱を戒め、3条は、中止・退去命令を出すに際しては、1号ないし6号に掲げる事項を勘案して判断するものとし、1号ないし6号を通読すれば、市長の中止・退去命令の対象は、既存の暴走族及びこれと同視することができる集団に限るものと解されるのであり、市長が適法に中止・退去命令を発することができる場合を、本条例施行規則はこのようなものとして規定しているのである。
 もっとも、本条例施行規則が規制対象をこのように限定的にとらえているということから直ちに本条例自体の規定の文言の広範性、不明確性が補正、修正されるというものではない。しかし、本条例施行規則3条が、市長の中止・退去命令の対象を既存の暴走族及び社会通念上これと同視できる集団に限っているということは、本条例の規制の対象範囲は本来は広いが、その中から特にこれらを取出して条例よりも限定した範囲で規制しようとしたというのではなく、本条例の規制対象を前提にしてその範囲の行為の取締りを実現するための細則を市長が定めたものと見るべきである。その意味で、本条例施行規則の規定は、条例自体がどのような範囲の行為を規制しようとしているのかを確認するための重要な要素と見ることができるのである。
 このような観点で見ると、本件においては、本条例による処罰対象行為は合理的な限定解釈が十分に可能であり、限定解釈の下においては、本条例による規制が憲法21条1項、31条に違反するものでないことは多数意見が述べるとおりである。
4 田原裁判官は、本条例による規制が広範すぎて不明確であることの理由の一つとして、本条例16条1号及び2号が「い集」という文言を用いていることを挙げる。しかし、これは裁判所の憲法判断の方法として相当でないと考える。そもそも「い集」と「集会」とは、その外形的な現象は似ているが、後者は特定の目的、意図の下に人々が結集するもので、集会自体が多人数による一つの表現行為という面を持つものである。したがって、両者は、その特性、表現行為としての意味ないし価値の点等から大きく異なるものであり、これらに対する規制は、それぞれ別個のものとしてとらえて評価すべきであって、これを同一のものととらえて評価すべきものではない。そして、最高裁昭和57年(行ツ)第156号同59年12月12日大法廷判決・民集38巻12号1308頁は、関税定率法21条1項3号の「公安又は風俗を害すべき書籍、図画」等の明確性が問題となった事案において、上告人に適用された「風俗」に関する部分についてのみ判断し、「公安」の関係については一切判断していない。これは、憲法判断をするに際し、最高裁判所が当該事件に直接には適用されない文言の関係について判断するのは適当でないことを明らかにしたものと解される。本件においては、被告人に適用されたのは「集会」という文言であって、「い集」という文言は適用されていないのである。したがって、「い集」という文言の不明確性をもって、違憲の理由とすることは相当ではないと考える。

裁判官那須弘平の補足意見は、次のとおりである。

 私は多数意見に賛同するものであるが、どのような場合に限定解釈が許されるのか、その要件に関し補足して私の考えを明らかにしておきたい。
1 表現の自由が問題となる法令につき、過度に広範な規制が文面上されているためそのままでは違憲無効と判断されるおそれがある場合に、いわゆる限定解釈をすることで規制の対象を絞り込み、結論としてその規制が合憲であるとの判断を示すことが当審でもときに行われてきた。本件の多数意見も同様な立場に立つものである。
 どのような場合に限定解釈をすることが許されるのかについては、最高裁昭和57年(行ツ)第156号同59年12月12日大法廷判決・民集38巻12号1308頁(札幌税関検査違憲訴訟事件)が示す以下の二つの要件を満たす必要があると解すべきことは所論のとおりである。
(1)その解釈により、規制の対象となるものとそうでないものとが明確に区別され、かつ、合憲的に規制しうるもののみが規制の対象となることが明らかにされる場合であること。
(2)一般国民の理解において、具体的場合に当該表現物が規制の対象となるかどうかの判断を可能ならしめるような基準をその規定から読みとることができるものであること。
2 多数意見は、本条例が規制の対象とする「暴走族」につき、暴走行為を目的として結成された集団である本来的な意味における暴走族の外には、服装、旗、言動などにおいてこのような暴走族に類似し社会通念上これと同視することができる集団に限られるものと解する立場をとる。
「暴走族」の意味については、「オートバイなどを集団で乗り回し、無謀な運転や騒音などで周囲に迷惑を与える若者たち」を指すものであると理解するのが一般的であり(広辞苑第5版等)、この理解はほぼ国民の中に定着しているといってよい。したがって、本条例の「暴走族」につき、上記のとおりの限定解釈ができれば、本条例の規制の対象となるものが本来的な意味における暴走族及びこれに類似する集団に限られその余の集団は対象とならないことも明確になるのであるから、「広範に過ぎる」という批判を免れるとともに、「規制の対象となるものとそうでないものとが明確に区別され、かつ、合憲的に規制しうるもののみが規制の対象となることが明らかにされること」という大法廷判決の第1の要件が充たされるのは明らかである。
 問題は第2の要件である「規制の対象となるかどうかの判断を可能ならしめるような基準をその規定から読みとることができるものであること」に当たるかどうかであるが、この点に関する大法廷判決の趣旨は、「限定解釈」も解釈の一種であるところから、規定の文言自体から対象を限定することの正当性が導き出されるような内容のものであることを求める点にあると理解できる。換言すると、規定の文言自体から導き出せないような限定解釈は、客観性・論理性を欠き、恣意的な解釈に流れるもので、そもそも「解釈」と呼ぶに相応しくないという、当然の事理を指摘したものと考えられる。
 これを本条例について見ると、条例の名称が広島市暴走族追放条例とされているほか、条例の目的を定める1条をはじめとして随所に「暴走族追放」、「暴走族から(の)離脱」等の文言が存在し、その主たる目的が少年の本来的暴走族への参加を防止し、あるいはその離脱を促すことにあることが読み取れる内容のものとなっている。そして、「暴走族」が社会通念上「オートバイなどを集団で乗り回し、無謀な運転や騒音などで周囲に迷惑を与える若者たち」を指すものと理解され、この理解がほぼ確立したものとなっていることも上述のとおりである。
 このような諸点を前提とすれば、本条例が本来的な暴走族及びこれに類似する集団のみを対象とするものであるとする限定解釈の内容は、一般国民の理解においても極めて理解しやすいものであり、本条例の「規定から読みとることができるもの」であると評価できるものである。
 これに対し、本条例2条7号が「公共の場所において、公衆に不安若しくは恐怖を覚えさせるような特異な服装若しくは集団名を表示した服装で、い集、集会若しくは示威行為を行う集団」をも暴走族として取り扱うこととしている点は、一般国民の理解においてはむしろ社会通念に反する奇異なものと映り、定義規定にあるとの一事をもって正確な理解に達することは容易ではないとも考えられる。
 以上の点から見て、本条例につき多数意見のような限定解釈をすることは、大法廷判決の示す第2の要件との関係でも適合的であると評価できる。
 この点に関し、反対意見は、本条例2条7号が、本来の暴走族の外に「公共の場所において、公衆に不安若しくは恐怖を覚えさせるような特異な服装若しくは集団名を表示した服装で、い集、集会若しくは示威行為を行う集団」をも「暴走族」と定義している点を強調する。
 しかし、「規制の対象となるかどうかの判断を可能ならしめるような基準をその規定から読みとることができるかどうか」の判断は、定義規定だけに着目するのではなく、広く本条例中に存在するその他の関連規定をも勘案して決すべきものであり、そのような広い視点から判断すれば、本条例における「暴走族」につき多数意見のように限定解釈をすることは大法廷判決の示す要件にも合致し、十分に合理性を持つと考える。
3 本件では、限定解釈により規制の対象から除外される行為をした者は、この限定解釈により利益を受けることはあっても不利益を受けることはない。逆に限定解釈をしてもなお規制の対象から外れない行為をした者(本件の被告人はこれに該当する)は限定解釈をするかどうかでその利益に差異を生じない。一般国民は限定解釈により本条例が違憲無効とされることなく存続することによって本来的暴走族ないしこれに準ずる集団でないにもかかわらず規制の対象とされたり、そうでなくても一般的に表現の自由の保障に無関心な社会が到来するのではないかという懸念による心理的な「萎縮」の被害を受ける可能性が考えられないではないが、他方で暴走族の被害を予防できるというより現実的な利益を受けることを期待できる。これらのことを考慮すれば、利益考量の点からも、限定解釈をすることが適切妥当であると考える。
4 本条例は、広島市における暴走族の追放を眼目として、市民生活の安全と安心が確保される地域社会の実現を図るために制定されたものであり、地方自治の本旨に基づく市の責務遂行の一環として、それなりの評価がなされて然るべき性質のものである。
 私は、本件につき第1審及び原審の判断を維持しつつ、憲法上広範に過ぎると判断される部分については判決書の中でこれを指摘するにとどめ、後のことは広島市における早期かつ適切な改正等の自発的な措置にまつこととするのが至当であると考える。

裁判官藤田宙靖の反対意見は、次のとおりである。

 多数意見は、本条例19条、16条1項1号、17条等について、これらの規定の規律対象が広範に過ぎるため本条例は憲法21条1項及び31条に違反するとの論旨を、いわゆる合憲限定解釈を施すことによって斥けるが、私は、本件においてこのような合憲限定解釈を行うことには、賛成することができない。
 いうまでもなく、日本国憲法によって保障された精神的自由としての集会・結社、表現の自由は、最大限度に保障されなければならないのであって、これを規制する法令の規定について合憲限定解釈をすることが許されるのは、その解釈により規制の対象となるものとそうでないものとが明確に区別され、かつ合憲的に規制し得るもののみが規制の対象となることが明らかにされる場合でなければならず、また、一般国民の理解において、具体的場合に当該表現行為等が規制の対象となるかどうかの判断を可能ならしめるような基準を、その規定自体から読み取ることができる場合でなければならないというべきである。この点多数意見は、本条例2条7号における「暴走族」概念の広範な定義にもかかわらず、目的規定である1条、並びに5条、6条、そして本条例施行規則3条等々の規定からして、本条例が規制の対象とするのは、専ら社会的通念上の暴走族及びそれに準じる者の暴走行為、集会及び祭礼等における示威行為に限られることが読み取れる、という。しかし、通常人の読み方からすれば、ある条例において規制対象たる「暴走族」の語につき定義規定が置かれている以上、条文の解釈上、「暴走族」の意味はその定義の字義通りに理解されるのが至極当然というべきであり(そうでなければ、およそ法文上言葉の「定義」をすることの意味が失われる)、そして、2条7号の定義を字義通りのものと前提して読む限り、多数意見が引く5条、6条、施行規則3条等々の諸規定についても、必ずしも多数意見がいうような社会的通念上の暴走族及びそれに準じる者のみを対象とするものではないという解釈を行うことも、充分に可能なのである。加えて、本条例16条では「何人も、次に掲げる行為をしてはならない」という規定の仕方がされていることにも留意しなければならない。多数意見のような解釈は、広島市においてこの条例が制定された具体的な背景・経緯を充分に理解し、かつ、多数意見もまた「本条例がその文言どおりに適用されることになると、規制の対象が広範囲に及び、憲法21条1項及び31条との関係で問題があることは所論のとおりである」と指摘せざるを得なかったような本条例の粗雑な規定の仕方が、単純に立法技術が稚拙であることに由来するものであるとの認識に立った場合に、初めて首肯されるものであって、法文の規定そのものから多数意見のような解釈を導くことには、少なくとも相当の無理があるものと言わなければならない。
 なお、補足意見が指摘するように、被告人の本件行為は、本条例が公共の平穏を維持するために規制しようとしていた典型的な行為であって、多数意見のような合憲限定解釈を採ると否とにかかわらず本件行為が本条例の規定自体に違反することは明らかである。しかしいうまでもなく、被告人が処罰根拠規定の違憲無効を訴訟上主張するに当たって、主張し得る違憲事由の範囲に制約があるわけではなく、またその主張の当否(すなわち処罰根拠規定自体の合憲性の有無)を当審が判断するに際して、被告人が行った具体的行為についての評価を先行せしむべきものでもない。そして、当審の判断の結果、仮に規律対象の過度の広範性の故に処罰根拠規定自体が違憲無効であるとされれば、被告人は、違憲無効の法令によって処罰されることになるのであるから、この意味において、本条例につきどのような解釈を採ろうとも被告人に保障されている憲法上の正当な権利が侵害されることはないということはできない。
 私もまた、法令の合憲限定解釈一般について、それを許さないとするものではないが、表現の自由の規制について、最高裁判所が法令の文言とりわけ定義規定の強引な解釈を行ってまで法令の合憲性を救うことが果たして適切であるかについては、重大な疑念を抱くものである。本件の場合、広島市の立法意図が多数意見のいうようなところにあるのであるとするならば、「暴走族」概念の定義を始め問題となる諸規定をその趣旨に即した形で改正することは、技術的にさほど困難であるとは思われないのであって、本件は、当審が敢えて合憲限定解釈を行って条例の有効性を維持すべき事案ではなく、違憲無効と判断し、即刻の改正を強いるべき事案であると考える。

裁判官田原睦夫の反対意見は、次のとおりである。

 多数意見は、本条例がその文言どおりに適用されることになると、憲法21条1項及び31条との関係で問題があることを認めながら、限定的に解釈すれば、いまだ憲法21条1項、31条に違反するとまではいえない、とするが、私は、本条例は、通常の判断能力を有する一般人の視点に立ったとき、その文言からして、多数意見が述べるような限定解釈に辿りつくことは極めて困難であって、その規定の広範性とともに、その規制によって達成しようとする利益と規制される自由との間の均衡を著しく欠く点において、憲法11条、13条、21条、31条に違反するものと言わざるを得ないと考える。以下、その理由を述べる。
1 本条例は、その規制の対象者及び規制の対象行為が極めて広範である。
(1)規制対象者について
 本条例は、多数意見の1の(1)に引用されているとおり、16条1項1号に該当する行為をし、かつ17条による市長(その権限受任者)の中止命令又は退去命令(以下、「中止命令等」という。)に違反した者を19条により刑事罰に処するものであるが、その適用対象者は、16条1項柱書に記載されているとおり「何人も」であって、本条例制定の目的とする「暴走族」ないし「それと同視することができる集団」という限定は付されていない。
 多数意見は、本条例の目的規定や、本条例には暴走行為自体の抑止を眼目とする規定が数多く含まれていること、本条例の委任規則である本条例施行規則3条は、本条例17条の中止命令等を発する際の判断基準として暴走族であることを前提とする諸規定を設けていること等を総合すれば、「本条例が規制の対象としている『暴走族』は、本条例2条7号の定義にもかかわらず、暴走行為を目的として結成された本来的な意味における暴走族の外には、服装、旗、言動などにおいてこのような暴走族に類似し社会通念上これと同視することができる集団に限られるものと解され」るとするが、本条例16条の「何人も」との規定を多数意見のように限定して解釈することは、通常の判断能力を有する一般人において、著しく困難であるというほかはない。しかも、本条例の制定過程における市議会の委員会審議において、本条例2条7号の暴走族の定義を「暴走行為をすることを目的として結成された集団をいう」と修正し、また16条1項につき、「何人も」とある原案に対して、「暴走族の構成員は」と修正する案が上程されたが何れも否決されているのであって、かかる条例制定経緯をも勘案すれば、多数意見のような限定解釈をなすことは困難であるというべきである。
(2)規制対象行為について
 本条例の中止命令等の対象となるのは、市の管理する公共の場所において、市の承認又は許可を得ないで、特異な服装をし、顔面の全部若しくは一部を覆い隠し(以下、両行為を合わせて「特異な服装等」という。)、円陣を組み、又は旗を立てる等威勢を示すことにより、公衆に不安又は恐怖を覚えさせるようない集又は集会を行うことである(16条1項1号、17条)。
 なお、上記施行規則3条は、中止命令等を行う場合の判断に際し勘案すべき事項を定めているが、その中には、後述する1号等、暴走族に直接結びつくものもあるが、「明らかに人物の特定を避けるために顔面の全部又は一部を覆い隠している者の存在」(2号)、「他の者を隔絶するような形での円陣等い集又は集会の形態」(3号)、「その他社会通念上威勢を示していると認められる行為」(6号)などは、その規定の対象行為自体からは直接暴走族に結びつくものではなく、かつその対象行為が広範であり、殊に6号は、何らの制限も加えられていない一般条項的な規定である。また、同規則自体は、本条例の内容を律するものではなく、中止命令等を発する場合の準則にすぎないものである。
以下、本条例が規制の対象とする主な行為について検討する。
ア 服装について
 本条例17条は、「特異な服装」をして、い集又は集会することを規制の対象とする。施行規則3条1号は、「暴走、騒音、暴走族名等暴走族であることを強調するような文書等を刺しゅう、印刷等をされた服装等特異な服装を着用している者の存在」と規定し、「特異な服装」について一応の限定を付するかの如きであるが、同号は、本条例17条に定める「特異な服装」の解釈規定ではないうえ、「特異な服装」は同号に限定されず、同号に該る服装を着用していなくても「特異な服装」をして「他の者を隔絶するような形での円陣等い集又は集会」(3号)をしていれば、中止命令等の対象となるとするものであって、結局服装について、「暴走族、又はそれに準ずる集団に属することを想起させるもの」に限定してはいないのである。
 人が、道路や公園等開かれた公共の場所において、如何なる服装をするかは、憲法11条、13条の規定をまつまでもなく本来自由であり、それが公衆に不快感や不安感、恐怖感を与えるものであっても、それが、刑法や軽犯罪法等に該当しない限り、何ら規制されるべきものではない。
 殊に、服装が思想の一表現形態としてなされる場合には、憲法21条との関係上、その表現行為は、尊重されなければならない。そして、その表現行為の中には、髪形や身体へのペインティング等をも含め、今日の社会常識からすれば、奇異なものも含まれ得るのであり、また例えば平和を訴える手段として骸骨や髑髏をプリントしたシャツを着用する等、一見それを見る者に不安感や恐怖感をもたらすものも存し得るが、それらの表現行為が軽々に規制されるべきでないことは言うまでもない。ところが本条例では、上記のような服装も中止命令等の対象となり得るのである。
イ 「顔面の全部若しくは一部を覆い隠す」行為について
 本条例17条は、かかる行為につき、何らの限定も設けておらず、また施行規則3条2号は「明らかに人物の特定を避けるために顔面の全部又は一部を覆い隠している者の存在」を中止命令等発令の基準として定めているところ、それらの規定からは、顔面の全部又は一部を覆い隠す行為と暴走族等との直接の結びつきは認められないのである。 
 人物の特定を避けるために顔面の全部又は一部を覆い隠す行為は、日常の社会生活においても時として見受けられるのであって、例えばいわゆる過激派集団の一部が参集する際に、ヘルメットを着用したうえでタオルで顔面を覆い隠していることは周知の事実であり、また、一部の宗教団体において、ヴェールで顔を覆い隠す等のことがなされている。それらの行為をも含めて、同人らがい集し又は集会を開催することが、公衆に不安又は恐怖を覚えさせるときは、中止命令等の対象となり得るのである。
ウ 「い集」行為について
「い集」とは「蝟(はりねずみ)の毛のように、多く寄り集まること」(広辞苑第5版)を意味しているが、い集している集団は、集会と異なり、その参加者に主観的な共同目的はなく、個々人が、その自由な意思の下に、単なる興味目的や野次馬としても含めて、随時集っている状態である。
 憲法11条や13条の規定をまつまでもなく、民主国家においては、道路や公園等、公共に開かれた空間を人々は自由に移動し、行動することができるのであるが、本条例は、「い集」した集団が「特異な服装等」をしていれば、その規制の対象にするものである(なお、本条例は、市の管理する公共の場所で市の承諾又は許可を得ないで、上記のごとき「い集」をすることを中止命令等の対象としているが、「い集」している集団には、主催者なるものはあり得ず、予め市の承諾又は許可を得る主体は存し得ないのであり、従って「市の承諾又は許可を得たい集」なるものは有り得ないのである。それ故、本条例に基づいて、い集している集団に対して、中止命令等を発令し、その命令違反を刑事罰に問うことは、不能な条件を付した構成要件に該当する行為を犯罪に問うものであって、その点においても憲法31条に違反するものと言わざるを得ない。)。
(3)規制の対象が広範囲であるが故の違憲
 以上、(1)、(2)で検討したとおり、本条例の規制対象者は、本条例の目的規定を超えて「何人も」がその対象であり、その対象行為は、本条例の制定目的を遥かに超えて、特異な服装等一般に及び得るのであって、その対象行為は余りに広範囲であって憲法31条に違反すると共に、民主主義国家であれば当然に認められるいわば憲法11条、13条をまつまでもなく認められる行動の自由権を侵害し、また、表現、集会の自由を侵害するものとして憲法21条に違反するものであると言わざるを得ない。
2 本条例は、その規制によって達成しようとする利益と、規制される自由との間の均衡を著しく欠いている。
(1)本条例の保護法益及び侵害行為について
ア 本条例の保護法益について
 本条例は、暴走族による示威行為等を規制することによって、市民生活の安全と安心が確保される地域社会の実現を図ることを目的として制定されたものである(1条)が、本条例が刑事罰をもって保護しようとする利益は、上記の市民生活の安心と安全の確保のうち、市の管理する公共の場所を市民(公衆)が、特異な服装等をしている者の威勢行為によってもたらされる「不安」や「恐怖」を抱くことなく、安心して利用することができるという利益であり、市民生活の安心と安全のうちの極く限られた場面における利益である。しかも、その「不安」や「恐怖」は、次に述べるように具体性を伴うものではなく、漠としたものでしかない。
イ 本条例が抑止しようとする侵害行為
 本条例が刑事罰をもって抑止しようとする行為は、上記のとおり特異な服装等をしてい集又は集会している者が威勢を示すことによって公衆に「不安」や「恐怖」をもたらす行為である。その威勢行為それ自体は、その文言から明らかな如く、具体的な犯罪行為そのものや犯罪行為を想起させる行為ではない。また、威勢を示す行為によってもたらされる「不安」や「恐怖」の具体的内容を本条例は規定していないが、少なくとも具体的な犯罪事実が発生することないしその虞に対する「不安」や「恐怖」ではないことは、その規定内容からして明らかである。そうすると、本条例によって抑止しようとする「不安」や「恐怖」の対象は、未だ犯罪事実として捉えることができない段階のものを意味しているものと解されるのであり、本条例の立法事実をも踏まえれば、精々で特異な服装等をしてい集又は集会している者から「絡まれる」、「因縁をつけられる」、「睨まれる」、「凄まれる」おそれ等による「不安」や「恐怖」を意味するものと解される。本条例は、そのような漠たる「不安」や「恐怖」をもたらすおそれのある威勢行為を抑止しようとするものである。
(2)本条例の規制対象行為と規制内容
 本条例の規制対象行為は、公共の場所における服装等の自由という、民主主義社会における、いわば憲法11条や13条によって保障される以前の自由の範疇に属する自由な行動に対する規制であり、又服装等によってなされる表現の自由、かかる表現者による集会の自由に対する規制である。
 しかも、その規制内容は、「行為の中止又は当該場所からの退去を命じる」という、個々人が有している上記自由に対する直接的な規制である。即ち「特異な服装等」をしている者に対し、その中止即ちその服装の脱衣(ボディペインティングであれば、脱色する等)やい集、集会の解散を命じ、あるいは公共の場所からの退去を命じることができるのである(本件では、市長に代行して本条例に基づく中止命令等を発する権限を与えられた市職員は、被告人に対し、「条例違反になるから、特攻服を脱ぐか、すぐ退去しなさい」と命じている。)。
(3)本条例の保護法益ないし侵害行為と規制内容は、合理的均衡を著しく失している。

 本条例が保護しようとする法益は、上述のとおり市が管理する公共の場所を利用する公衆が「不安」又は「恐怖」を抱くことなく利用できる利益であり、また、規制しようとする侵害行為は、かかる「不安」又は「恐怖」を生じさせるような威勢を示す行為であるが、その「不安」や「恐怖」の内実は、具体的な犯罪事実の発生やその虞以前の漠とした「不安」、「恐怖」でしかない。
 それに対して、本条例が市長による中止命令等という行為を介してではあるが、刑事罰をもって規制しようとする行為は、服装等の自由、行動の自由という憲法によって保障される以前の本来的な自由権であり、また表現、集会の自由である。しかも本条例は、前記のとおりそれらの自由を直接規制するものである。
 しかし、上記の自由は、民主主義国家における根源的な自由として最大限保護されるべきものであり、その規制が一般的に認められるのは、当該公共の場所たる道路の交通秩序の維持(道路交通法6条4項、76条4項)や公園における利用者相互の調整(広島市公園条例4条4項4号(公園において集会その他これらに類する催しのために公園の全部又は一部を独占して利用する場合に市長の許可を要する。)、5条7号(公園の利用者に迷惑を及ぼす行為の禁止))等、公共の場所の管理に必要とされる限度に止まるのであって、それを超えて、上記の自由を規制するには、公共の安全の確保、危険の防止等、その規制の必要性を合理的に認め得るに足りるだけの事由が存するとともに、その規制が、その目的達成のために最低限必要な範囲に止まることが必要であるというべきである。
 ところが、前記のとおり、本条例によって保護されるのは、市が管理する公共の場所を利用する公衆の漠とした「不安」、「恐怖」にすぎず、他方規制されるのは、人間の根源的な服装や行動の自由、思想、表現の自由であり、しかもそれを刑罰の威嚇の下に直接規制するものであって、その保護法益ないし侵害行為と規制内容の間の乖離が著しいと解さざるを得ない。
 したがって、かかる視点からしても、本条例は憲法11条、13条、21条、31条に反するものであると言わざるを得ないのである。
3 限定解釈について
 多数意見は、本条例を限定的に解釈することにより、違憲の問題は克服できるとし、また、堀籠裁判官は、その補足意見において、本条例につき合理的限定解釈ができる由縁を敷衍される。
 最高裁判所は、これ迄に、堀籠裁判官の補足意見で引用される判例ほかにおいて、憲法違反の有無が問題となり得る法律や条例につき、限定解釈をなすことにより、当該事案との関係において違憲の問題が生じないとの判断を示してきた。
 私も過去の最高裁判所が示してきたような限定解釈の可能性を否定するものではない。しかし、それらの判例において、常に反対意見や意見が表明されているように、如何なる場合に限定解釈により合憲として判断できるかについては、なお意見が岐れていたところである。
 私は、形式的には法律(条例)が憲法21条、31条等の諸原則に抵触するにかかわらず、それを限定解釈によって合憲と判断できるのは、その法律(条例)の立法目的、対象とされる行為に対する規制の必要性、当該法律(条例)の規定それ自体から、通常人の判断能力をもって限定解釈をすることができる可能性、当該法律(条例)が限定解釈の枠を外れて適用される可能性及びその可能性が存することに伴い国民(市民)に対して生じ得る萎縮的効果の有無、程度等を総合的に考慮し、限定解釈をしてもその弊害が生じ得ないと認められる場合に限られるべきであると考える。
 かかる視点から見たとき、1において検討したように、本条例は、その規定の文言からして、通常の判断能力を有する一般人にとって、多数意見が述べるような限定解釈をすべきものと理解することは著しく困難であり、それに加えて、2で述べたとおり、その保護法益ないし侵害行為と規制される自由との間に合理的均衡を著しく欠いているものと言わざるを得ないのであって、かかる点からしても本条例の合憲性を肯定することはできない。
 多数意見のように限定解釈によって、本条例の合憲性を肯定した場合、仮にその限定解釈の枠を超えて本条例が適用されると、それに伴って、国民(市民)の行動の自由や表現、集会の自由等精神的自由が、一旦直接に規制されることとなり、それがその後裁判によって、その具体的適用が限定解釈の枠を超えるものとして違法とされても、既に侵害された国民(市民)の精神的自由自体は、回復されないのであり、また、一旦、それが限定解釈の枠を超えて適用されると、それが違憲、無効であるとの最終判断がなされるまでの間、多くの国民(市民)は、本条例が限定解釈の枠を超えて適用される可能性があり得ると判断して行動することとなり、国民(市民)の行動に対し、強い萎縮的効果をもたらしかねないのである。
 なお、私は、暴走族が公共の場所において傍若無人の行動をなすことによって、公共の場所の一般的利用者の利用が妨げられるのを防止すべく、条例を以て規制すること自体は適法であると考える。そして、本条例は、一応その目的の下に制定されたものであり、本件における被告人の行為は、本条例が目的とした主要な規制対象行為そのものに該当するといえる。しかし、以上検討したとおり、本条例自体が違憲無効である以上、被告人の行為を罪に問うことができないのは、やむを得ないといえよう。