俺がルール( ̄ー ̄)ニヤリの巻

tossy802にお怒りをくらいました(ノ◇≦。) ビェーン!!
 
tossy802(▼O▼メ)「貴様の事なんか興味ないねん。毎日更新じゃなくていいから、ブログの質を上げろ」
 
ど、、、どうしよう(-ω-;)
こんなにまで俺のブログを愛してくれる人がいるとは・・・・・・
毎日チェックするとはすごい。結構長文で読みにくいし、毎日読む人はいないと思って、正直なめていたぞ。
 
今日は憲法の勉強した。今日はその中でも信教の自由について。
 
ちょくちょくこのブログでも、宗教がらみの問題を扱ってきたことはあった。しかし、今日は原点に帰り、信教の自由をそもそもなぜ憲法レベルで保障しているのか?という点について検討してみたい。
 
というのも、この間プロテスタントの勧誘にあったの。ほんで、興味もあったので暇つぶしに行ってみた。彼らにとってみたら、冷やかしみたいな感じではあったけど、こういうきっかけは結構大切だと思うのであります。
 
行ってみたらびっくり。いきなり、聖書を読む。
あらやだ。あたくし、何にもキリスト様の教えは知らないから、色々話が聞きたかったのよ。
ということで、話してみた。いやらしいかもしれないけど、あたくしの宗教関連の質問を切り出した。
 
僕「あたくし、法律の勉強をしておりまして、たまに思うのでございます。それは、正義ってなんなんだろう?ってことです」
 
なぜこんなことを聞いたのか?
 
たぶん、キリスト教の人はキリストの言うことが正義であり、仏教においてはお釈迦様の言うことが正義だったりするんじゃないかな?こういう個人の抱く宗教という正義に矛盾を感じることがあったためでございます。
世界には、いろんな宗教があります。そして、世界には宗教的な理由によって戦争があったりもします。宗教って、争いのためのものではないでしょ?だから、すごい矛盾を感じたのであります。
 
あたくしの質問に対して、明確な答えはありませんでした。
しかし、聖書を読み、平和を訴え続けることによって、いつか戦争の無い平和な世界があると、彼らは信じていました。
 
いい社会勉強だったのだ。やっぱり、信じるものがあるっていい。その点は少しうらやましい。そう感じた。しかし、特定の宗教を信仰するというのは、あたくしにあわなかった。自分教なのだ。しかも、洋はダメね。和だな。やっぱり。厳しさの中にもやさしさを忘れない和の趣を大事にしたいの。
 
憲法の話にもどるのだ。
憲法20条1項は「信教の自由は、何人に対してもこれを保障する」と規定。
これは、特定の宗教の信仰を保障する(積極的な保障)一方で、一般に宗教を信じない自由をも保障している(消極的な保障)規定なのである。あたくしは、特定の宗教を信仰しているわけではないけど、これも憲法上保障された自由なのである。信じるも信じないも自由なのである。特に、内心でどう信仰しようと自由である。たとえ、それがオ○ム真理教であっても、誰も文句を言うことはできない。内心にとどまる限り100%の保障が約束されている。
 
そのため実は、ここでいう宗教は、何も正義を意味するわけではない。
宗教とは、超自然的、超人間的本質の存在を確信し、畏敬崇拝する信条と行為をいう。
したがって、超人間的本質の存在を確信し、麻原(仮名)さんという人を畏敬崇拝するのもひとつの宗教なのである。宗教は人の考えの数だけ存在するといってもいいのである。つまり、無限なのである。
 
以上を見ればわかるが、信教の自由はかなり保障が厚い。
憲法13条を終極として、憲法は自由を保障している。しかし、それはもちろん無制限ではない。「あいつ嫌い。コロス」なんて、ドラゴンボールに出てくるような悪者のようなことをする自由はないのである。
 
こんな判例がある。
(`□´)「タバコを吸う自由は人権として認められている。よって、監獄のなかでも吸わせろ!!」と言って、訴訟を起こした囚人がいました。
はい。もちろん負けましたよ。うほ。
 
この通り、自分勝手な自由は一定の範囲で制限される。
しかし、この自由も「宗教」を理由とした場合、裁判所はかなり耳を傾けてくれるのである。キリスト系の信者による宗教を理由とした訴訟は多い。その中でも、「異質だなぁ」とあたくしが感じたのが、エホバの証人である。余談ではあるが、キリストはエホバの子なのだそうだ。びっくり(ノ゜⊿゜)ノ!!
 
エホバの証人は、輸血、献血が禁止らしいのだ。そこで問題となったのが次の事件である。
肝臓の悪性腫瘍を摘出する手術が必要となったエホバの証人の女性がいた。信仰上の理由から、彼女及びその家族は、救命手段として輸血が必要であっても、輸血をしないという絶対的無輸血での手術を医師に求めた。しかし、生命維持のために輸血をするという医療方針を説明すること無く、手術をし、輸血もしてしまった。そこで、手術が成功して助かったエホバの証人は激怒ですよ。
みなさんはどう思います?手術にちゃんと成功して、命も助かった。だけど、宗教上の信仰において、その手段(輸血)は絶対イヤだったというのです。これは単なるわがまま?
最高裁は以下のように判断したのだ!
 
最高裁「今回やった手術で輸血なしでOKなんて言う医者はいないっちゅうの!その点においては、両者(患者と医師)に合意は無いね。でも、輸血の点は患者の同意が必要だった。説明義務違反あり」
 
として、精神的損害についての損害賠償を認めたのだ。つまり、社会的に正当な行為であっても、宗教上問題がある場合は、最大限配慮しろよ!ということである。やっぱり、宗教の自由は保障が厚い!
 
もうひとつある。エホバの証人は、格闘を禁止されている。そのため、例えば体育の授業では、柔道や剣道等の武道が授業に採用されているが、信者の生徒は授業を拒否する。そこで問題となったのが、体育で必修の剣道の履修を拒否したため、高校退学処分をうけたというものだ。
エホバの証人は、
ヽ(`△´)/「こんな処分は、信教の自由を侵害する!!退学処分を取消せ!!エホバの証人なめんな!!」
と主張。
 
この訴訟でも、最高裁は信教の自由を重視!!エホバの証人がこの訴訟に勝ったのだ!
宗教的理由じゃなかったら、まず無視されるような問題でも、宗教が絡むと強力な理由となるのだ!!
 
しかし、いずれも公権力と私人との関係。要するに、国にかかわる人は信教の自由と言う人権を最大限尊重しろよということ。したがって、私人間の問題は別問題。友達同士では、両者ともに信教の自由がある。そのため、自分の信仰する宗教を、他人に押し付けたりはできないのである。当然の内容である。まぁ、そんなことをすると、自分の信仰する宗教に対し、マイナスなので普通はしない。
しかし、手段を選ばないオウム真○教なんかは、マインドコントロールという荒業まで使って入信者を確保していた。一歩間違えれば宗教は麻薬でもあるのだなぁ、と感じる。
 
もちろん、サリンを撒くような宗教活動の自由は認められていません。宗教活動の自由は認められますが、内心にとどまらないので、他者が害する場合は制限されるのだ。このバランス感覚は難しい。どこまで保障されるような人権なのか?これは政教分離の判断においても、重要な要素なのだ。
 
でも、やっぱりあたくしは教えを遵守する生き方はできそうにないでやんす。
え?
 
だって、俺がルールだから( ̄ー ̄)ニヤリ