何が無価値?――結果無価値と行為無価値の巻

今日は、刑法やった。ちょっとだけやけども。。。



後期から、ロースクールの場所が移転してJR二条駅前になる。
そのため、移転前の場所においていた会社法のテキストやらを移転先に送ってもらっている最中。
だから、会社法はできないので、刑法ばっかりやっとります。

法律って一応、条文やらなんやらの規範があって、それを論理的に構成して問題を処理する。なかなか難しい学問である。
その中でも刑法は、理論やら思想やらが根底にあって、ものすごく難しい。
そんな難しい学問の刑法のお話。混乱すること必至である。
とゆーことで、今から混乱して行きます。。。


例えば、刑法において出てくる専門用語に「行為無価値」とか「結果無価値」という言葉が出てくる。


意味不明である。


結果が価値なし?行為が価値なし?はぁ??


実は、刑法における「無価値」とは、「価値がない」という意味ではない。
ここでいう「無価値」はドイツ刑法輸入によるもので、刑法上の専門用語なのであった。


簡単に言えば、この「無価値」とは、「悪い」という意味を指す。刑法上、悪い=違法を意味する。
そもそも、刑法は悪いことをしなければ発動されることはない。つまり、悪いことが犯罪の要素なのであって、悪くなければ犯罪じゃないという当然の前提を意味するわけである。
悪いことをしていないのに逮捕されてしまったら、とんでもない人権侵害が国家権力によってなされることになってしまう。
そこで、何が刑法上「悪い」のか?その基準について対立がある。
それが、すなわち「行為無価値」と「結果無価値」の対立である。


これは、悪い対象を行為態様について着目して決するのか、結果が生じたこと、たとえば人の死とかを着目して悪いかどうかを決するのかという議論である。



行為無価値の考えはこうである。すなわち、刑法は国民が一定価値基準に従って行動するように、その価値基準に反する行為を処罰するのだという考え方であり、刑法の任務は社会倫理の維持にあるとする。


結果無価値の考えはこうである。すなわち、価値基準の違ったいろいろな人がいることを前提として、それらの人たちが共同生活を営む上において必要な基本的な価値を、刑法によって守るという考え方。そのため、価値基準の違った人たちの共存を保障するために、その各人の生存の基礎になっている各人の生命、身体、自由、財産を保存するために刑法がある!!とする。


はたして、これがどのように対立するのか??


行為無価値の場合悪いというのは、殺人罪の場合、論理的には次のように考えることとなる。
殺人行為というのが国民の価値基準に反するものである。ゆえに、悪い。


他方、結果無価値の場合、殺人(人の死)という結果は、刑法が守るべき生命の侵害である。ゆえに、悪い。


つまり、結果無価値の場合、悪いかどうかという評価においては、刑法で守るべきもの、すなわち法益を侵害したかどうかが問題であり、刑法という法律で守っていない以上は、いくら国民の価値基準に反するものであっても、ここでは悪いと評価されないのである。悪いとされないということ、すなわち、犯罪ではないということである。


以上の「行為無価値」と「結果無価値」の違いは、「規範」の定義で生じる。
結果無価値では、「悪い結果を発生させるな!!」という規範となる。
行為無価値の場合、「悪い結果を発生させようとする意図を持つ振る舞いをするな!!」となる。この結果を発生させようとする意図であったかどうかは国民の価値基準による。要するに、「国民がそんなことは悪い!!」と思うようなことは、刑法上ももちろん悪いんだ!!という考え方とほとんど重なる。


普通の人だったら、

「国民が悪いと思ってることが犯罪とされてるんじゃないか!!だから、国民の価値基準に反するような行為は犯罪じゃないか!!」

なかなか、わかりやすくて説得的な言い分であるとも思える。

たしたに、結果の有無によって悪いかどうかを選別していくと、厳密に言えば、「未遂罪」は悪くないということとなってしまう。


なぜなら、未遂罪は現に結果のない犯罪であり、結果がない以上、結果無価値からすれば悪いとはいえないからである。


例えば、ゴルゴ(13)がライフルの射撃をミスって外してしまって狙った人の10cm脇を玉が通過したような場合である。玉が当たらなかった以上、無傷だった狙われた人。結果無価値からいえば死の結果はもちろんのこと傷ひとつついていない。にもかかわらず、やはり殺人未遂罪が通常、成立する。殺人未遂罪は殺人罪の刑を減軽することができるが、しなくてもよい。


しかし、このような議論はそもそもおかしいところがある。


行為無価値の説明からしても、そもそも結果を考慮しなければ悪い行為か判断できないということである。つまり、行為が悪いかどうかを基準とするといっても、その行為が何に向けられたものかを考慮しなければその行為が悪いかどうかが決められないということである。これは、未遂でも同様である。

例えば、殺人行為が悪いとしても、その行為が殺人という結果をもたらすようなものかどうかを判断しなければならないわけで、結果抜きで悪いかどうかなんて決められないのである。

未遂罪においても同様である。ゴルゴ(13)が人の生命を害するという結果をもたらすような行為であるかどうかが問題であり、やはり結果をみなければ悪い行為かどうか判別できないのである。


結果無価値と、行為無価値を切り離して、悪いかどうかを判別するとどうなるのか?


究極的には、悪いことをするような人を処罰することとなるので、悪いことをしそうな人間かどうか、つまり悪いことをするような考えを持っているかどうかを基準にすることとなる。しかし、現実的な運用は難しい。


そもそも、人の純粋な内心なんて知ることはできないのである。そこで、殺人未遂の場合でも、刑法を運用する以上、殺人結果を目指しているということが明らかでなければならないわけで、そのメッセージの発信の有無を判断する必要がある。そのメッセージこそ未遂罪における未遂結果である。

先ほどの、ゴルゴ(13)の場合、ピストル発射の時点で、結果を発生させ得る行為に及んでいる。行為無価値は、この点に着目する。
その理由は、厳密な意味で結果(人の死)が発生するかどうかは、紙一重であるという価値基準があるからである。
つまり、ピストルを発射をした以上、その玉が当たるか当たらないかは紙一重であり、結果の有無はあまり関係ないというのである。
たしかに、人を殺そうとした点において、結果が発生したかどうかは関係ないともいえる。社会から見ても、人殺しは、「人殺し」という点が重要なのだ!!と考えれば、殺人に成功したかどうかは、あまり関係ない。狙った人間と玉の距離が10cm離れていようが10km離れていようが、人を殺そうとして狙ってピストルを打った以上は、殺人者ということなのである。



「殺人者は社会から抹殺しろー!!」



わかりやすい。最近物騒な事件ばかりだし、こういうこと言っても結構納得されそうだ。たしかに、安全な社会がいいのは当然である。
そして、この行為無価値的な考えは、最終的には次のようなことに行き着く。


何もやってなくても、殺人者と同視できる以上、刑務所行き!!!!


つまり、心の中で「殺してやる!!」と殺人者宣言をした人も、刑務所行きになりかねないということである。もはや、宗教の世界である*1


先にも述べたように、人の純粋な内心なんて知ることはできない。
国家機関によって、「そういう人だったら殺人者だね」という恣意的運用がなされてはひとたまりもない。ナチスである。



要するに、結果無価値と切り離された行為無価値を刑法上、想定できないのである。



刑法の実現において考えなければならない重要な点は、刑法が人権侵害を伴う害悪であるということである。
社会秩序を維持するために刑法という法律をもって、悪いことをした人を罰していくとしても、その運用にミスがあってはならない。当然のことである。
最も認定が難しいのは人間の主観である。心の中でどう思っていたのか?刑法上、故意犯の場合、*2やった行為に対応する認識、すなわち故意があったのかどうかという心理状態を認定する。
しかし、ここで動機や意欲していたといった事情を重要視して、故意よりも先にこの動機や意欲した事情を反映させて、


裁判所「こんな奴は刑務所に行くべき!」


という考えが先行してしまっては、きちんとした事実認定がなされず有罪となってしまいかねない。危険である。
刑法上、責任評価と違法評価は異なるのである。
刑法上、悪いことをした人間、つまり違法性が認定されて、それがどれだけ非難され得るかという判断は別作業なのであり、

非難される者だから悪いことをした、つまり有責性があるから違法性が認定されるとはいえないのである。もちろん逆もいえない。


と、話がそれてきたところでおしまい。なんか混乱することをいっぱい書いてしまった。反省、反省。

*1:マタイによる福音書によれば、「みだらな思いで他人の妻をみる者はだれでも、既に心の中でその女を犯したのである」という。

*2:主観的超過要素を別とすれば、