時間は自由を奪うものではなく、利用するもの。の巻
あかん。最近夜遅くまで勉強してるせいで、朝起きれなくなってきてる。これじゃ意味ないジャマイカ。
昨日で、一応知財は終了。知財は先生からもらった出題予想論点のみ復習だ。
【憲法基本判例を読み直す】
第4回は、苫米地事件判決。純粋な統治行為論を採用した判例。
事案は、衆議院の抜打ち解散に対して、憲法69条によらない解散だから違憲ということを苫米地さんが主張して、国に任期満了までの議員歳費請求したというもの。
これに対して、衆議院解散は統治行為として司法審査の対象外と国は反論。
で、
一審、原審は統治行為論を否定。
しかし、最高裁は、統治行為論を採用。その理由は、内在的制約説による。
が、野坂先生は、判例が
直接国家統治の基本に関する高度に政治性のある国家行為のごときはたとえそれが法律上の争訟となり、これに対する有効無効の判断が法律上可能である場合であっても、かかる国家行為は裁判所の審査権の外にあり、その判断は主権者たる国民に対して政治的責任を負うところの政府、国会等の政治部門の判断に委され、最終的には国民の政治判断に委ねられているものと解すべきである。
この司法権に対する制約は、結局、三権分立の原理に由来し、当該国家行為の高度の政治性、裁判所の司法機関としての性格、裁判に必然的に随伴する手続上の制約等にかんがみ、特定の明文による規定はないけれども、司法権の憲法上の本質に内在する制約と理解すべきである。
と判断している部分のうち、
- なぜ「高度の政治性」を備えた国家行為については、それについて法的判断が可能であっても司法権が及ばないのか。
- そのことを「三権分立の原理に由来」するとして正当化することができるのか。
- 「司法権の憲法上の本質に内在する制約」とは何か。
これらの点について明確な説明が本判決にはなく、説明として全く不十分という。
本件安全保障条約は、主権国としてのわが国の存立の基礎に極めて重大な関係をもつ高度の政治性を有するものというべきであって、その内容が違憲かどうかの法的判断は、その条約を締結した内閣およびこれを承認した国会の高度の政治的ないし自由裁量的判断と表裏をなす点がすくなくない。
それ故、右違憲かどうかの法的判断は、純司法的機能をその使命とする司法裁判所の審査には、原則としてなじまない性質のものであり、従って、一見極めて明白に違憲無効であると認められない限りは、裁判所の司法審査権の範囲外のものであって、それは第一次的には、右条約の締結権を有する内閣およびこれに対して承認権を有する国会の判断に従うべく、終局的には、主権を有する国民の政治的批判に委ねられるべきものであると解するを相当とする。
「一見極めて明白に違憲無効であると認められない限りは、裁判所の司法審査権の範囲外のもの」と判断しており、反対解釈すると「一見極めて明白に違憲無効であると認められる」場合には、司法審査の対象となるという余地があると読める。
なお、判例には、部分社会論を根拠に司法審査の対象外とするものがある。統治行為論同様にともに司法審査の対象外との帰結を導く。
ただ、その論理構成は異なる。「統治行為」が法律上の争訟に当たるが、司法権の内在的制約として司法審査の対象外となるのに対して、「部分社会」の内部事項に関する行為は、そもそも法律上の争訟に当たらないという。
まず前提として、判例は、裁判所法3条1項の「一切の法律上の争訟」は、あらゆる法律上の係争を意味するわけじゃないとする。つまり、
法律上の係争>「法律上の争訟」
という図になる。
↓そして
「事柄の性質上裁判所の司法審査の対象外におくのを適当とするもの」、例えば、
「一般市民社会の中にあってこれとは別個に自律的な法規範を有する特殊な部分社会における法律上の係争」は、
「一般市民法秩序と直接の関係を有しない内部的な問題にとどまる限り、その自主的、自律的な解決に委ねるのを適当」という。
このような判旨の論理からすると、このような場合には法律上の係争とはいえても裁判所法3条1項の「法律上の争訟」ではないということになる。
結局、統治行為論同様に、裁判所の司法審査の対象にはならないという結論を導く。
第5回は、三菱樹脂事件の判例。人権の私人間効力の問題。
人権規定の名宛人は国家であるという観念を前提として、初めて「憲法の人権規定が私人間に適用されるかどうか」ということが問題となる。
一般には、間接適用説を採用した判例といわれていたが、最近は無効力説の判例と解する考えが有力。野坂先生もその1人。
確かに、判例は
私人間では、適切な「立法措置」と「私的自治に対する一般的制限規定である民法1条、90条や不法行為に関する諸規定等の適切な運用によって」調整を図るべき。
という説示のみで、「憲法の人権規定を私法の一般条項を通じて間接適用する」趣旨が述べられているわけではない。そこで、私人間における人権規定の無適用説が唱えられる。
ただ、無効力説といっても、憲法の適用が私人間に適用されないという意味に過ぎず、私人間で人権が全く保障されなくなるということを意味しない。
判例の言葉を借りれば、
私人間の関係においては、一方の他方に対する侵害の態様、程度が社会的に許容しうる一定の限界を超える場合にのみ、法がこれに介入してその間の調整を図る
という形で憲法の人権規定が保障される、という。
そして、自衛官合祀事件判例でその具体的な適用例を挙げる。
私人相互間において憲法20条1項前段及び同条2項によって保障される信教の自由の侵害があり、その態様、程度が社会的に許容し得る限度を超えるときは、場合によっては、私的自治に対する一般的制限規定である民法1条、90条や不法行為に関する諸規定等の適切な運用によって、法的保護が図られるべきである
。
しかし、人が自己の信仰生活の静謐を他者の宗教上の行為によって害されたとし、かかる宗教上の感情を被侵害利益として、直ちに損害賠償を請求し、又は差止めを請求するなどの法的救済を求めることができるとするならば、かえって相手方の信教の自由を妨げる結果となるに至ることは、見易いところである。
信教の自由の保障は、何人も自己の信仰と相容れない信仰をもつ者の信仰に基づく行為に対して、それが強制や不利益の付与を伴うことにより自己の信教の自由を妨害するものでない限り寛容であることを要請しているものというべきである。このことは死去した配偶者の追慕、慰霊等に関する場合においても同様である。何人かをその信仰の対象とし、あるいは自己の信仰する宗教により何人かを追慕し、その魂の安らぎを求めるなどの宗教的行為をする自由は、誰にでも保障されているからである。原審が宗教上の人格権であるとする静謐な宗教的環境の下で信仰生活を送るべき利益なるものは、これを直ちに法的利益として認めることができない性質のものである。
ここでは、憲法上もっぱら国家に対して保障される「信教の自由」が私人によって侵害されたとした場合の「法的保護」のあり方が語られている。
ただ、間接適用説でもあまり処理の仕方はかわらないみたい。
だから、ここは間接適用説でOKということにしよう。
対国家的権利である人権の直接適用はできない=直接適用説の否定
↓しかし
憲法は全法秩序の基本原則
↓ゆえに
私人間においても人権保障の理念(11条等)が妥当
↓そこで
人権保障の理念(11条等)と私的自治の原則との調和の観点から、私法の一般条項(民90条、709条等)を媒介にして、憲法の人権規定を間接的に適用すべき
簡単に論証し、勝負は当てはめ。
有斐閣憲法Ⅰ245頁にも間接適用説においても、その適用の仕方には幅があるって書いてあるから、腕の見せ所は当てはめということですな。
有斐閣憲法Ⅰ246頁で当てはめの差異の考慮ファクターがある。
- 当該私法関係がどのような性質のものであるか
- いかなる性質の人権が保障され、いかなる性質の人権が制約を受けるのか
1は、①対等か事実上の不平等が存するか、②団体と個人の関係では、団体の性格や権限がどのようなものであるか
2は、①内面的生死的自由権か、②外面的指針的自由権か、③経済的自由権か
これらの要素から検討。ただ、間接適用説ではこれらの考慮が法律上の解釈という枠の中でやるってところは要注意。
あかんあかん。軽く思い出すための復習のはずが、色々熱中してしまって結構時間を費やしている。
時間に踊らされているようではまだまだだ。