【映画の】「それでもボクはやってない」の続編【結末】。の巻

久しぶりに勉強の話。



それでもボクはやってない」が公開されたのが2007年1月。


被害者の供述が唯一の証拠となっている事案での痴漢えん罪事件。
残念ながら映画では無実の罪(有罪)を科せらて終わった。



あの映画は第一審で話は終わったわけだが、
それから2年後の平成21年4月14日に、映画ではなく実際に最高裁において被害者の供述のみが唯一の証拠という痴漢事件に対する判決が出た。
第一審、控訴審はいずれも有罪だったが



最高裁判決は無罪!



きっと映画観たんだろう裁判官たちも。補足意見とか見たらそう思わざるを得ない。
映画では痴漢をやっていないこと(えん罪事件)を前提に話が進んでいるが、現実では被告人しかやったかやっていないかはわからない。そのため、やったかどうかわからないグレーな被告人はどうなるのか?ってのが問題となる。
本来ならばグレーということで、「疑わしくは被告人の利益に」(利益原則)という原則から無罪となるわけだが、事実認定いかんによっては本当はグレーなのに、被告人が痴漢行為をしたことに「合理的な疑いを入れる余地なし」とか言って有罪となされることがある。そういうことを描いたのが「それでもボクはやってない」という映画だった。
しかし、最高裁は「疑わしくは被告人の利益に」って刑事事件における基本原則に沿った判決内容となっている。
ただ、無罪といっても、那須弘平補足意見でも言われているように「被告人が犯罪を犯していないとまでは断定」したわけではない。



判決理由

 当審における事実誤認の主張に関する審査は、当審が法律審であることを原則としていることにかんがみ、原判決の認定が論理則、経験則等に照らして不合理といえるかどうかの観点から行うべきであるが、本件のような満員電車内の痴漢事件においては、被害事実や犯人の特定について物的証拠等の客観的証拠が得られにくく、被害者の供述が唯一の証拠である場合も多い上、被害者の思い込みその他により被害申告がされて犯人と特定された場合、その者が有効な防御を行うことが容易ではないという特質が認められることから、これらの点を考慮した上で特に慎重な判断をすることが求められる。

上告審である最高裁は、映画でやってた第一審手続ような事実認定はしない。最高裁は法令違反のチェックのみをするという原則である。これが法律審の意味。
ただ、例外的に事実問題を判断することもできる。重大な事実誤認は、上告審においても破棄理由とされている(刑訴411条3号)。
被害者の供述しか証拠がない痴漢事件だと、その供述を信用して事実をそのまま認めるか否かによって180度結論が変わるので、ここでの争点は「被害者の供述を信用して事実を認めて良いか」ってことになる。唯一の証拠である被害者の供述に信用性がなくて、やったかどうか疑わしいときは無罪である。
だから、被害者の供述を信用するかが、物的証拠等の客観的証拠がない場合においては決定打となる。それだけに、信用して良いかどうかは慎重にしなければならないということがここで語られている。
そして、最高裁における被告人が主張する事実誤認に関する審査については、「原判決の認定が論理則、経験則等に照らして不合理といえるかどうかの観点から行うべきである」としている。有罪を維持する堀籠幸男の反対意見も付されているが、この判断基準自体は肯定している。が、その適用過程が多数意見と異なる。事実認定の難しさが意見の相違に表れている。
ここで重要なことは、公訴事実の真偽が不明と判断される場合は、有罪に必要な「合理的な疑いを超えた証明」はなおなされていないので無罪とされるということである。これは利益原則という刑事訴訟法上における基本原則の内容である。
この点については、以下の近藤崇晴の補足意見が参考になる。

 上告裁判所は、事後審査によって、「判決に影響を及ぼすべき重大な事実の誤認がある」(刑訴法411条3号)かどうかを判断するのであるが、言うまでもなく、そのことは、公訴事実の真偽が不明である場合には原判決の事実認定を維持すべきであるということを意味するものではない。
 上告裁判所は、原判決の事実認定の当否を検討すべきであると考える場合には、記録を検討して自らの事実認定を脳裡に描きながら、原判決の事実認定が論理則、経験則等に照らして不合理といえるかどうかを検討するという思考操作をせざるを得ない。その結果、原判決の事実認定に合理的な疑いが残ると判断するのであれば、原判決には「事実の誤認」があることになり、それが「判決に影響を及ぼすべき重大な」ものであって、「原判決を破棄しなければ著しく正義に反すると認めるとき」は、原判決を破棄することができるのである。殊に、原判決が有罪判決であって、その有罪とした根拠である事実認定に合理的な疑いが残るのであれば、原判決を破棄することは、最終審たる最高裁判所の職責とするところであって、事後審制であることを理由にあたかも立証責任を転換したかのごとき結論を採ることは許されないと信ずるものである。

「事後審制であることを理由にあたかも立証責任を転換したかのごとき結論を採ることは許されない」というのはその通だろう。
これに対して、書面審査しか行わない上告審の事後審制を重視する堀籠幸男の反対意見は

 Aの供述の信用性を肯定した原判決に論理則や経験則等に違反する点があると明確に指摘することなく、ただ単に、「Aが受けたという公訴事実記載の痴漢被害に関する供述の信用性についても疑いをいれる余地があることは否定し難い」と述べるにとどまっており、当審における事実誤認の主張に関する審査の在り方について、多数意見が示した立場に照らして、不十分といわざるを得ない。

とするが、これが「唯一の証拠である被害者の供述の信用性について疑いを入れる余地があるとしても無罪とするのに不十分である」こと意味するならば、疑わしき証拠で有罪とすべきことを帰結することになる。となると、被告人の側でさらに無罪の証明をしなければならないこととなる。
しかし、これでは「疑わしきは罰する」ということになって、これは刑事訴訟法における基本原則に反して許されないものといえる。近藤崇晴の補足意見が「事後審制であることを理由にあたかも立証責任を転換したかのごとき結論を採ることは許されない」というのはこの意味だろう。


話を戻すと
結局、最高裁は、唯一の証拠である「被害者Aの供述」は信用できないって言ったわけだが、このようなケースにおける事実認定に関して、多数意見は冒頭で、

 被告人は、捜査段階から一貫して犯行を否認しており、本件公訴事実を基礎付ける証拠としては、Aの供述があるのみであって、物的証拠等の客観的証拠は存しない。被告人は、本件当時60歳であったが、前科、前歴はなく、この種の犯行を行うような性向をうかがわせる事情も記録上は見当たらない。
 したがって、Aの供述の信用性判断は特に慎重に行う必要があるのである

とする。
被害者Aの供述証拠が唯一の証拠ということを指摘する一方で、被告人が痴漢行為をするような性向は見あたらないことを指摘。
このような場合においては、被害者Aの供述を信用して事実認定するか否かが有罪か無罪かを分かつことを意味するので、この供述を信用して良いかの判断は慎重にすべき旨を確認している。


そして、結論として「Aが受けたという痴漢被害に関する供述の信用性にはなお疑いをいれる余地がある。」とした理由が以下の(1)〜(3)の3つである。

(1)Aが述べる痴漢被害は、相当に執ようかつ強度なものであるにもかかわらず、Aは、車内で積極的な回避行動を執っていないこと、
(2)そのこととAのした被告人に対する積極的な糾弾行為とは必ずしもそぐわないように思われること、また、
(3)Aが、成城学園前駅でいったん下車しながら、車両を替えることなく、再び被告人のそばに乗車しているのは不自然であること

(1)は要するに、痴漢されて嫌なら普通は抵抗するだろ、とくに本件みたいなしつこく痴漢されてるのに何もしないのは被害者としてはおかしい、被害者Aの言うような痴漢行為が本当にあったのか疑わしいってことを言っている。
これは「論理則、経験則に照らして」なされた多数意見の判断であるが、(1)のような評価に対しては反対意見が付されている。
堀籠幸男の反対意見では

 Aの供述の信用性を検討するに際しては、朝の通勤・通学時における小田急線の急行・準急の混雑の程度を認識した上で行う必要がある。この時間帯の小田急線の車内は、超過密であって、立っている乗客は、その場で身をよじる程度の動きしかできないことは、社会一般に広く知れ渡っているところであり、証拠からも認定することができるのである。身動き困難な超満員電車の中で被害に遭った場合、これを避けることは困難であり、また、犯人との争いになることや周囲の乗客の関心の的となることに対する気後れ、羞恥心などから、我慢していることは十分にあり得ることであり、Aがその場からの離脱や制止などの回避行動を執らなかったとしても、これを不自然ということはできないと考える。Aが回避行動を執らなかったことをもってAの供述の信用性を否定することは、同種痴漢被害事件において、しばしば生ずる事情を無視した判断といわなければならない。

と言う。なかなか説得力がある意見だなぁとは思うが、逆に多数意見のようにも解する余地もありえないというわけではないので、これをもって直ちに信用性を判断することはできない。


次に
(2)でいう糾弾行為とは、被害者Aが被告人のネクタイをつかむという積極的な糾弾行動に出たということを指している。つまり、痴漢の被害に対し回避行動を執らなかったAが、被告人のネクタイをつかむという積極的な糾弾行動に出たことは、(1)で何も抵抗していなかった被害者の態度としてはおかしいだろ、そんな内容の供述は信用性低い!ってことを言っている。


ここでも、堀籠幸男の反対意見が指摘する。

 犯人との争いになることや周囲の乗客の関心の的となることに対する気後れ、羞恥心などから短い間のこととして我慢していた性的被害者が、執拗に被害を受けて我慢の限界に達し、犯人を捕らえるため、次の停車駅近くになったときに、反撃的行為に出ることは十分にあり得ることであり、非力な少女の行為として、犯人のネクタイをつかむことは有効な方法であるといえるから、この点をもってAの供述の信用性を否定するのは、無理というべきである。 

これもなかなか説得力があると思う。が、これをもって多数意見のような判断が絶対的におかしいとまで言えるのかよくわからない。いずれも「論理則、経験則」からしてあり得る事態であるように思われる。事実認定は本当に難しい。
ただ、問題は「どちらが優れて説得的か」、というよりも、「有罪無罪のいずれもありうると考えられる場合に有罪と判断してよいか」ということだ。逆から言うと、「どっちの事実が絶対に正しいかはわからない」ってこと。
いずれもありうる可能性ならば、やはり「合理的な疑いを余地がある」ということになるわけで、そうなるとやはり無罪とする多数意見が妥当といえる。これが「疑わしきは罰せず」の意味なのだろう。このことは、次の(3)でも同様に言えることだ。


(3)は、被害者Aがいったん途中の駅で下車したのに、車両を替えずに、痴漢がいる車両に再び乗車した行動を取っているが、それって痴漢された被害者が自ら被害に遭いに行くようなもんだろ、変だろそんなの、そんな内容の供述は信用できない。そういうことを言っている。確かに、被害者が再び痴漢されに行く行動を取っていたらおかしいというのは「論理則、経験則」に照らしてもいえるだろう。


しかし、これに対しても堀籠幸男の反対意見で

 Aは、成城学園前駅では乗客の乗降のためプラットホームに押し出され、他のドアから乗車することも考えたが、犯人の姿を見失ったので、迷っているうちに、ドアが閉まりそうになったため、再び同じドアから電車に入ったところ、たまたま同じ位置のところに押し戻された旨供述している。
 Aは一度下車しており、加えて犯人の姿が見えなくなったというのであるから、乗車し直せば犯人との位置が離れるであろうと考えることは自然であり、同じドアから再び乗車したことをもって不自然ということはできないというべきである。そして、同じ位置に戻ったのは、Aの意思によるものではなく、押し込まれた結果にすぎないのである。多数意見は、「再び被告人のそばに乗車している」と判示するが、これがAの意思に基づくものと認定しているとすれば、この時間帯における通勤・通学電車が極めて混雑し、多数の乗客が車内に押し入るように乗り込んで来るものであることに対する認識に欠ける判断であるといわなければならない。この点のAの供述内容は自然であり、これをもって不自然、不合理というのは、無理である。

という多数意見の看過している事実について指摘している。これまた「論理則、経験則」に照らして導かれる結論といえそうである。
「論理則、経験則」というもっともらしいマジックワードによって結論が180度違っている。
供述が「具体的」とか「不自然な点がない」といったことで正解をだそうとすれば、被害者が事前に「具体的」かつ「自然」な供述を考えてなすと、それがたとえ嘘でも「論理則、経験則」というファクターを通って事実として扱われる可能性があるってことだ。
このことに対する危惧として、那須弘平の補足意見がある。

 痴漢事件について冤罪が争われている場合に、被害者とされる女性の公判での供述内容について「詳細かつ具体的」、「迫真的」、「不自然・不合理な点がない」などという一般的・抽象的な理由により信用性を肯定して有罪の根拠とする例は、公表された痴漢事件関係判決例をみただけでも少なくなく、非公表のものを含めれば相当数に上ることが推測できる。
 しかし、被害者女性の供述がそのようなものであっても、他にその供述を補強する証拠がない場合について有罪の判断をすることは、「合理的な疑いを超えた証明」に関する基準の理論との関係で、慎重な検討が必要であると考える。


問題は、結局、「どっちが絶対に正しいかはわからない」ってことだ。那須弘平の補足意見は

 反対意見の見解は、その理由とするところも含めて傾聴に値するものであり、一定の説得力ももっていると考える。しかしながら、これとは逆に、多数意見が本判決理由中で指摘した理由により、Aの供述の信用性にはなお疑いをいれる余地があるとする見方も成り立ち得るのであって、こちらもそれなりに合理性をもつと評価されてよいと信じる。

という。
このようにいずれも成り立ちうる場合にどう判断すべきかという点について、那須弘平の補足意見は

 合議体による裁判の評議においては、このように、意見が二つ又はそれ以上に分かれて調整がつかない事態も生じうるところであって、その相違は各裁判官の歩んできた人生体験の中で培ってきたものの見方、考え方、価値観に由来する部分が多いのであるから、これを解消することも容易ではない。そこで、問題はこの相違をどう結論に結びつけるかであるが、私は、個人の裁判官における有罪の心証形成の場合と同様に、「合理的な疑いを超えた証明」の基準(及び「疑わしきは被告人の利益に」の原則)に十分配慮する必要があり、少なくとも本件のように合議体における複数の裁判官がAの供述の信用性に疑いをもち、しかもその疑いが単なる直感や感想を超えて論理的に筋の通った明確な言葉によって表示されている場合には、有罪に必要な「合理的な疑いを超えた証明」はなおなされていないものとして処理されることが望ましいと考える(これは、「疑わしきは被告人の利益に」の原則にも適合する。)。
 なお、当審における事実誤認の主張に関する審査につき、当審が法律審であることを原則としていることから「原判決の認定が論理則、経験則等に照らして不合理といえるかどうかの観点から行うべきである」とする基本的立場に立つことは、堀籠裁判官指摘のとおりである。しかし、少なくとも有罪判決を破棄自判して無罪とする場合については、冤罪防止の理念を実効あらしめるという観点から、文献等に例示される典型的な論理則や経験則に限ることなく、我々が社会生活の中で体得する広い意味での経験則ないし一般的なものの見方も「論理則、経験則等」に含まれると解するのが相当である。多数意見はこのような理解の上に立って、Aの供述の信用性を判断し、その上で「合理的な疑いを超えた証明」の基準に照らし、なお「合理的な疑いが残る」として無罪の判断を示しているのであるから、この点について上記基本的立場から見てもなんら問題がないことは明らかである。

なるほど。結局、多数意見と反対意見はいずれの事実認定もあり得るという点で正しいのだとすると、それは結局どちらが正しいかよくわからないということを意味する。つまり、真偽不明の状態である。ゆえに、有罪に必要な「合理的な疑いを超えた証明」がなされたといえないから無罪!これが多数意見ってことだ。
近藤崇晴の補足意見も

 本件においては、「被害者」の供述と被告人の供述とがいわば水掛け論になっているのであり、それぞれの供述内容をその他の証拠関係に照らして十分に検討してみてもそれぞれに疑いが残り、結局真偽不明であると考えるほかないのであれば、公訴事実は証明されていないことになる。
 言い換えるならば、本件公訴事実が証明されているかどうかは、Aの供述が信用できるかどうかにすべてが係っていると言うことができる。このような場合、一般的に、被害者とされる女性の供述内容が虚偽である、あるいは、勘違いや記憶違いによるものであるとしても、これが真実に反すると断定することは著しく困難なのであるから、「被害者」の供述内容が「詳細かつ具体的」、「迫真的」で「不自然・不合理な点がない」といった表面的な理由だけで、その信用性をたやすく肯定することには大きな危険が伴う。また、「被害者」の供述するところはたやすくこれを信用し、被告人の供述するところは頭から疑ってかかるというようなことがないよう、厳に自戒する必要がある。
 本件においては、多数意見が指摘するように、Aの供述には幾つかの疑問点があり、その反面、被告人にこの種の犯行(公訴事実のとおりであれば、痴漢の中でもかなり悪質な部類に属する。)を行う性向・性癖があることをうかがわせるような事情は記録上見当たらないのであって、これらの諸点を総合勘案するならば、Aの供述の信用性には合理的な疑いをいれる余地があるというべきである。もちろん、これらの諸点によっても、Aの供述が真実に反するもので被告人は本件犯行を行っていないと断定できるわけではなく、ことの真偽は不明だということである。

要するに、本当に犯人である者を無罪としてでもえん罪を防止するってこと。

結局、まとめると

多数意見
 被害者の供述を信用できない要素がある→合理的な疑いあり→無罪

反対意見
 被害者の供述を信用できる→合理的な疑いなし→有罪

って流れ。
多数意見&補足意見は反対意見のような信用性認定もありうるとしても、それでもなお多数意見の認定によると疑わしい部分もあるという点を認めるがゆえに合理的な疑いが生じるという。
これに対して、反対意見は多数意見のような事実認定は完全に否定することによって、合理的な疑いを入れる余地を認めない。
反対意見の方がいくら説得的な事実認定だとしても、多数意見による事実認定も他方であり得るなということになると、やっぱり真偽不明とせざるを得ないってことになる。多数意見の事実認定が「論理則、経験則」に照らして誤りといえない以上、多数意見が妥当なのだろう。




かくして、「それでもボクはやっていない」という主張が認められることが最高裁で認められたわけだが、しかし、結局のところ個々の裁判官の事実認定次第で有罪・無罪は変わるってことは変わらない。反対意見がそのことを証明している。明確な基準がなく「論理則、経験則」の適用である以上、これは仕方ないのか。
今後、裁判員制度になって、より適切な「論理則、経験則」の適用がなされると同時に、「疑わしくは被告人の利益に」という原則を実践できるのか。痴漢事件は裁判員事件にならないけど…