にーやんはどういう視点で論文の勉強をしているのか

no nameさんからコメントを頂きました。

にーやんさんはどういう視点で論文の勉強をされているのか気になったので。

ということで、長くなりそうなので、ここでお答えします。
ただ、私は論文の成績が良いわけではないので参考にならないと思いますが。


私のブログを見ればだいたいわかるとは思いますが、「設問に答える論文作成能力を向上させる」という視点だけで論文の勉強をしてます(これは実務でも役に立つ事だとも思っています)。
もちろん設問といっても色々あると思いますが、この視点は内容面に関して言うと、要するに「法的な問題の所在を発見して、法律を解釈し、事例に則して適用解決できるようにする」という意味です。

確かに色々な学説の知識を学ぶことは無益ではないと思うのですが、私は勉強していて正解だけを述べた説は一つもないと感じました。

「正解だけを述べた説」という意味がいまいちわかりませんが(「説」は立場そのものであって、そこで述べられたものが「正解」かどうかは判別なしえないと思います)、「正解とされる説」という意味でいうなら、そのようなものはないと思います。
よく判例・通説が正解という前提で勉強する人もいます。もちろん、私も判例・通説の考え方は理解して、それを表現できることが論文対策として必要だとは思います。事例処理問題では、その考えは「正解」だといえるでしょう。
しかし、今年の民訴の訴訟物の範囲に関する問題のように、答案として正しいとされるものは設問との関係で変わるんじゃないかと思います。これは判例・通説が正解とか誤りとかいう問題ではなくて、そこでの考え方がどういう法制度、趣旨、法原則の理解を前提として導かれるのかという考えの過程の方が重要だと思います。
もっとも、実務家登用試験である以上、その考えを前提にした事案処理のための法適用の理解も重要です。ですから、そこで考えられた法規範の当てはめの勉強も論文対策として必要だと思います。
その意味では、私も「学説の理論をえんえんと学ぶ」ということは試験対策上、効率が悪いと思います。しかし、判例・通説の背景とされている考え方(理論)がなければ、適切な当てはめもできないのではないかとも思っています。そして、その理解のために反対の考え方(少数説)も必要に応じて学ぶこともあると思います。それは必ずしも「学説の理論をえんえんと学ぶ」という消極的な意味ではなく、判例・通説の背景とされている理論を理解するためにはむしろ有益だったりすることもあるということです(調査官解説においても重要な論点については判例と反対の立場の学説も必ず紹介されていますが、それはこういった趣旨から紹介されているものと私は考えています)。要はバランスではないでしょうか。

大事なのは、結論だけを覚えるのではなくて、その法律がある趣旨と、対立利益との比較考量の塩梅をつかむことなんだと思います。

「対立利益との比較考量の塩梅をつかむ」というのは非常に重要なことだと、私も思いますよ。論文作成時の当てはめの際には、こういう視点が重要だと思うからです。
もっとも、法律問題では、それ以上に「法的根拠」というものの方が重要だとも思っています。法的根拠を欠く利益衡量は単なる感想文でしかないですからね。
もちろん、こんなことは司法試験の勉強をなさっている方なら、わかりきったことなんでしょうが、意外とベテラン研究者が口にしがちな「落しどころ先行型の論評」を受験生がやって失敗することも多いみたいですので(ちなみにこの指摘は、潮見佳男「プラクティス民法・債権総論」のはしがきでもされています)。

比較考量っていうと理論がないように思われがちですが、対立する利益の性質、対立の程度によって、ある程度の線は裁判所によって引かれているはずなんです。そしてそれを学説が理論つけて説明している、私はそんな風に理解しています。

ごめんなさい。どのレベルの話をされているのかわかりいません。
法規範における法解釈レベルでおっしゃっているのか、当てはめレベルでおっしゃっているのか。
学説の理論的部分は法規範定立部分(解釈論部分)だと思うので、そこで「説明」している部分は、2通り考えられるんじゃないですか?
第1に、学説理論は〜〜だから、この判例の法規範定立は正しい。
第2に、学説理論は〜〜だから、この判例の当てはめは正しい。
少なくとも、法の文言や制度趣旨、法原則等を度外視して、比較考量だけで解釈するというのは、法律解釈じゃないですから、私はそんな作文にならないように法律の文章となるように気をつけているつもりです。ですから、比較衡量の考えも、前提となる条文等の法解釈の範囲内において許されるものかどうかということは意識してます。

最高裁も理論をすべて明示してるわけではないし、……中略……
だから、学説の理論をえんえんと学ぶより、各事例を学んで、問題の根底にある利益の対立は何なのか、そして実務がどういう理由をつけてどう処理をするのか、をつかむという視点で私は勉強していました。

最高裁も理論をすべて明示してるわけではない」というのはおっしゃる通りで、そうすると「実務がどういう理由を付けてどう処理をするのか」ということをつかむことは容易でないと思うんですよ。
それから、この「理由」ですが、上記と同様に2通り想定できます。
それは第1に、事実認定の際の「評価」に当たる部分です。それは対立利益の評価かもしれませんし色々あると思うんです。当てはめ能力を向上させるためには、どういった点に裁判所は配慮しているのかといったことを重視して勉強することは論文対策として有益だと思います。
第2は、「法的根拠」に当たる部分です。これは当てはめ以前の問題です。直接条文の文言に該当しない、そもそも該当するかわからないケースなんかで示される法規範定立において示される「理由」部分です。この「理由」に当たるのが法解釈論部分です。これは利益衡量も当然必要ですが、法の文言・解釈という限界がある以上、繰り返しになりますが、利益衡量だけでは「理由」にはなりえません。
「〜の理由によりYよりもXの利益を保護すべきである。よって、○○条の要件に当たる」
なんて単なる感想文であって、法律文章じゃないでしょう。実際に、判例もそのようなことはしていません。例えば、民訴法の197条1項3号の「職業の秘密」に関する証言拒絶権について、判例は保護に値する秘密のみを「職業の秘密」とする解釈をすることを前提に、その判断を比較衡量を基準としていますが、これは民訴法197条1項3号の保護に値する「職業の秘密」に当たるかどうかの判断です。もちろん、それとは別に「職業の秘密」の文言に当たること(職業に深刻な影響を与え以後その遂行が困難になるものであること)も前提として必要です(したがって、ここでは文言該当性に加えて、さらに証言拒絶可能な範囲を制限的に解釈しているということになります)。
もちろんこのような解釈には民訴法上の基本原則に照らして理論的ではないという批判もご承知の通りですが、少なくとも法的根拠(この場合、民訴法197条1項3号の要件)を無視した比較衡量判断で結論を示しているわけではありません(もちろん、弁論主義や法人格否認の法理、所有権に基づく物権的請求権のような直接明文の定めがない法的根拠の場合もあります)。
そこで、次に判例がどのような制度・趣旨、法原則の理解を前提にしてこのような判断に至ったのか。それが法的根拠に示されるべき実質的な「理由」だと思います(もちろんこのような「理由」が判旨で常に示されているわけではありません)。
いずれにしても、感想文にならないように私は、判例でなされている判断(理由)が「当てはめ」のレベルなのか、「法規範定立」(法解釈)のレベルなのか、という点に気をつけています。
その上で、法解釈においては、ベテラン研究者が口にしがちな「落しどころ先行型の論評」にならないようにしようと気をつけています。そのためにも、法の文言から出発するように心がけ、そこで文言該当性(要件該当性)の有無について、判例・通説がどういった制度・趣旨、法原則の理解を背景に判断をしているのかという点を最も重要視しています。もちろん、この背景とされる法理論には場面によっては相反するものもあり得るでしょう(その典型例が、刑事手続上で要請される真実発見と人権保障だといえます)。その場合には、いずれがどのような視点から重視され、または重視されないのかという利益衡量的判断も必要となってくるでしょう。
そういうことなので、「結論だけを覚えるのではなくて」という考えは、私も同様ですよ。このような暗記では、択一ですら戦うことに限界が出てくると思ってます。


このコメントは補助参加に関する記事に対するものでした。色々と学説を挙げたので、「学説を追いかけている」ように見えたのかもしれません(ここ2週間ほどの日記を見ればそんな勉強をしてないことはわかると思いますが)。しかし、私も、そんなものを追い求めているわけではありません。

最高裁も理論をすべて明示してるわけではないし、結論に反対の学者もいるわけだし。統一されるわけがないんです。統一されることは私達の勉強には楽かもしれませんが、実務や理論的には荒廃する可能性のが高いと思います。

たしかに、考えに争いのある分野では1つの考えに統一されるようなことはないでしょう。学者は常に判例実務をあるべき道へと導くアンチテーゼであるべきだともいえますから(ただ、前提とされる基本事項については一定の共通理解が必要です。例えば、公序良俗違反の契約は無効とされるというのは共通の基本的理解だと思いますが、いかなる場合に公序良俗とされるべきかということについては色々な考え方・導き方があると思います)。

しかし、判例実務の考え方だけでも、その理解が容易でないこともあります。
その例が先日紹介した補助参加の話です。先日の日記で紹介して引用したものは、裁判官による記事(判タ1246号46頁)であって(その記事に紹介されていた学説を日記でも紹介した)、その記事を読めば、最高裁を含め裁判例でいかに迷走していて、理論的説明に窮しているのかということがわかります。そこで言いたかったのは、単なる学説の論争じゃなく、実務でも迷走しているということ。
すなわち、「実務がどういう理由をつけてどう処理をするのか」ということを本当の意味で理解することがいかに難しいか、それを理論付けようとする学者がいかに苦心しているかということ。

まとめていないため雑多な内容となりましたが、だいたいの論文対策の私の視点が見えたのではないかと思います。
勉強スタイルは人それぞれですので、こう考えるべきだといった押しつけは何の意味もないことなので、自分は以上のような視点を信じて、論文の勉強をやっています。