【論点】押尾被告人に保護責任遺棄致死罪が成立するのか?【まとめ】

押尾保護責任問う初の芸能人裁判員裁判

2010年9月3日


 合成麻薬MDMAを服用した女性を死亡させたとして、保護責任者遺棄致死罪などに問われた俳優押尾学被告(32)の裁判員裁判が3日、東京地裁で始まる。芸能人初の裁判員裁判だけに注目度が高いが、誰もが知っている有名人だけに、想定外の事態が発生する可能性もある。東京地検特捜部元副部長の若狭勝弁護士(53)が、裁判の展開を含め、押尾裁判の行方を大胆予想した。


 若狭弁護士は、この裁判を大いに注目している。「法的に興味深い。主要判例として残る可能性もありうる」。顔と名前が多くに知られる元芸能人が裁かれる、初の裁判員裁判だけに、報道などで裁判員の気持ちが揺れ動く可能性のある案件であること、また案件自体があまり多くない、保護責任者遺棄致死罪を問う裁判だからだ。同弁護士は大きく3つの見どころをピックアップした。


(1)法廷戦術 開廷は午後1時半だが、午前中に行われる裁判員の選任の際に、検察官と弁護人が理由を示さず、それぞれ最大7人の候補者を「忌避」できる。東京地裁は90人の候補者から、辞退を認めた人を除く63人に呼出状を送付した。裁判所が不適格者と判断しきれない候補者を除外するため、裁判員法第36条に規定されており、検察官と弁護人は裁判長に、候補者への質問を求めることができる。それが双方にとって、主張を理解してくれそうもない人物を外すために使われることが増えている。


 また同弁護士は裁判員選任の際の面接で「押尾被告のファンかどうかを確認する質問が出てきそう」と予想するが、それでも本心を隠したファンが裁判員になる可能性はある。裁判員に不公平なおそれがある場合、同法第41条により検察、被告、弁護人が解任できる。結審後の評議は裁判官と裁判員で行うが、そこでも不公平な裁判員がいた場合、同43条により裁判官が地裁に通知し、地裁から解任決定が出ることもある。同弁護士は「不適格者ばかりで裁判員が0になった場合、候補を再度、集めるのも制度的にはある」と話す。


(2)裁判の展開 09年12月7日に麻薬取締法違反(譲渡)で逮捕されて以降、押尾陣営は一貫して完全否認の姿勢を取っている。若狭弁護士は、その姿勢は変わらないと読んでいる。保護責任者遺棄致死罪には(1)保護責任者(2)遺棄(3)致死という論点があるが、押尾陣営はどう主張するのか?


 若狭弁護士 MDMAは押尾被告が渡したものではなく、女性が自分で持ってきたものだから保護責任者とは言えないと主張するでしょう。遺棄については心臓マッサージをしたし、自分としてできる最大限のことはやったと言うでしょうし、麻薬中毒でショック死しており、救急車を呼んでも助からなかったと致死も否定するでしょう。


(3)判決 押尾被告の通報が遅れたことと女性の死との因果関係があるかが最大の焦点だが、目に見える事件ではないため立証は難しいとみられる。若狭弁護士も「保護責任者遺棄致死罪で実刑になる可能性は1、2割だと思う。ただ保護責任者遺棄罪で実刑の可能性はある」と予想する。104法廷には19人の証人が出廷し、押尾被告にMDMAを渡し、懲役1年となった男(32)も証人台に立つ。同弁護士は「証人の証言はもちろん、検察、弁護側の主張に、どれだけ説得力があるかが、裁判員の心証を左右する」と指摘する。


 実刑の場合は、執行猶予中の麻薬取締法違反(使用)の懲役1年半を加えた併合罪となる。若狭弁護士は「保護責任者遺棄罪なら、実刑は2年くらいで合わせて3年半。保護責任者遺棄致死罪までいけば、実刑は8年前後で合わせて9年半でしょう。押尾陣営の主張に説得力があれば、裁判員の心の中に『救急車を呼んでも助からなかった』という思いが芽生える可能性はあります」と読んでいる。
http://www.asahi.com/showbiz/nikkan/NIK201009030045.html

押尾被告人の保護責任者遺棄致死罪の成否が問われる裁判員裁判が始まる。
保護責任者遺棄致死罪とは、保護責任者が遺棄または不保護によって被害者を死亡させた罪である。
死亡させた点では殺人罪と似ているといえるが、殺人罪よりもその犯行の形態は幅広く、かつ、殺意(殺人の故意)がなくとも成立する点で、殺人罪よりも対象となる行為は広いが、殺人罪(死刑又は無期若しくは5年以上の懲役)よりも軽い罪である(3月以上20年以下の有期懲役)。

もう少し正確に論点を指摘すると、

  1. 押尾被告人が被害者との関係で保護責任者に当たるといえるか
  2. 押尾被告人の行為が、218条の「遺棄」または不保護(「生存に必要な保護をしなかった」)に当たるか
  3. 押尾被告人の行為と被害者の死亡に因果関係があるといえるか

ということだろう。

■「保護する責任のある者」

本罪は、老年者、幼年者、身体障害者または病者を保護すべき責任ある者に成立が限定される身分犯である。単純遺棄罪よりも保護責任者遺棄罪の方が罪が重いのは、行為主体が保護の責任を有する者であることによる。



保護責任者は、要保護者の生命・身体の安全を保護すべき法律上の義務を負う者である。判例は、法令(警職3条、民820条・民877条・民752条等)、契約、事務管理(民697条以下)のほか、慣習や条理(堕胎措置を行った医師につき最三小決昭63年1月19日刑集42巻1号1頁)にも保護責任の根拠を求めている。これは不真正不作為犯の作為義務の根拠と基本的に同じであり、保護責任と作為義務とを同一に理解する現れである。
判例は、保護の継続性、引き受け、容易さや保護者としての独占的地位などの要素が保護責任の判断において重視されている。
実質的には、保護責任の有無は、

  1. 危険をコントロールし得る地位の有無
  2. 行為者が結果発生の危険に重大な原因を与えたのか否か(先行行為の内容等)
  3. 当該結果の防止に必要な作為の容易性
  4. 他に結果防止可能な者の有無
  5. 法令や契約等に基づく、行為者と被害者の関係性

というような事情を基礎に、具体的に判断されることになる。


被害者と密室で2人きりであったことからすると、押尾被告人が被害者の危険をコントロールし得る地位にあったといえること、
直接の死因が合成麻薬MDMAを服用したことによるとしても、その服用を被害者とともに行った押尾被告人にも間接な原因があったといえること、
被害者の心臓が止まる前に、救急車を呼ぶことにより専門的治療を受けさせることによって救命できた可能性があること、
密室での出来事であり、他に結果防止を期待できた者は皆無に等しいといえること、
等の事情からすると、押尾被告人が保護責任者に当たるとされる可能性が高いと考えられる。


なお、保護責任は保護義務を有する場合に認められるが、この保護義務の内容と不作為の遺棄に関する作為義務はかなり重なるというのが多数説(前田各論77頁、団藤各論454頁、大塚各論61頁)。

■遺棄・不保護

本罪の実行行為は、遺棄または不保護である。
遺棄とは、保護を要する者を保護のない状態に置くことでその生命・身体を危険にさらすことである。
判例・通説は、遺棄の態様として、移置と置き去りがあるとする。
移置とは、被遺棄者を他の場所に積極的に移動させる場所的移転(安全なあるいは危険な場所から危険な場所へ)を伴う場合をいう。
これに対して、置き去りとは、場所的移転を伴わず被遺棄者を危険な場所に置いて立ち去る場合という。
その上で、218条の保護責任者遺棄罪における遺棄は、移置および置き去りを意味すると解する。これに対して、217条の単純遺棄罪における遺棄は、場所的移転を伴う移置のみを意味するものと解する。
つまり、「遺棄」という犯罪行為(実行行為)が

保護責任者遺棄罪における「遺棄」行為→移置+置き去り
単純遺棄罪における「遺棄」行為→移置

となると解されている。
このように「遺棄」という同じ文言の行為にも関わらず217条(単純遺棄罪)と218条(保護責任者遺棄罪)でその範囲を異にするのは、217条の単純遺棄罪が行為主体に何らの限定がないのに対して、218条の保護責任者遺棄罪では被遺棄者を保護する責任ある者、つまり一定の作為を義務づけられた者を行為主体とし、それゆえ条文上「生存に必要な保護をしなかった」という不作為を処罰対象に加えていることから、作為的形態の遺棄(移置)だけにとどまらず、不作為的形態の遺棄(=置き去り)をも含むと解するためである。
以上をまとめると、「遺棄」という概念は、場所的離隔を生じさせることにより要扶助者を保護のない状態に置くことをいい、保護責任者遺棄罪を定める218条の遺棄には移置(作為)と置き去り(不作為)のいずれの行為も含まれる(いずれも処罰対象)ということになる。
そして、遺棄と不保護は、場所的離隔の有無で区別される。すなわち、いずれも要扶助者に生命の危険を生ぜしめる行為という点で共通するが、遺棄は場所的離隔を生じさせる場合で、不保護は場所的離隔を生じさせない場合ということになる。


押尾被告人も、被害者を放置して死亡させたとすれば、保護を必要とする者を置き去りにして保護のない状態に置いたといえる。

■死亡との因果関係

以上からすると、押尾被告人に保護責任者遺棄罪が成立する可能性は高い。
もっとも、被害者の死亡まで帰責できるかは問題である。これが保護責任者遺棄「致死」罪の問題である。
保護責任者遺棄致死罪が成立するには、押尾被告人の行為と被害者の死亡に因果関係が認められる必要がある。
ここでは、押尾被告人に一定の期待された行為がなされていたならば、被害者が死ななかったといえるという関係が認められるかによって因果関係の有無を決することになる。押尾被告人による「救急車を呼ぶ」という行為があれば、「被害者の死亡」という結果が生じなかったといえるかが問題となる。
仮に、すでに押尾被告人が被害者の症状の変化に気づいた時点ですぐに救急車を呼んだとしても、すでに手遅れで死亡していたということになれば、押尾被告人に期待された行為がされても結果が生じたわけであるから、押尾被告人の行為(遺棄)と被害者の死亡に因果関係を認めることはできない。
ということで、押尾被告人としては、被害者は麻薬中毒でショック死しており、救急車を呼んでも助からなかったという主張をして因果関係を争うものと予想される。


因果関係の存在は検察官が立証しなければならない。すなわち、裁判所が因果関係のあることを確信することに成功しなければ、検察官は立証失敗(=致死については犯罪不成立)ということになる。
検察官の立証が成功するためには、主張・立証された事実からみて合理的な疑いを入れない程度に、押尾の遺棄行為と被害者の死に因果関係があるといえることが必要である。


薬物死と救急要請措置との因果関係の問題という点で、今回の事件と共通する論点に関する判例がある。
多量に覚せい剤を注射使用して、当時13歳の少女が、倒れたまま動けなくなるという状態に陥ったにもかかわらず、放置したまま立ち去って少女を遺棄した(少女死亡)という事案で、救急医療を要請しなかった不作為と被害者少女の死の結果との間に因果関係が問題とされた。
この問題について、最三小決平元年12月15日刑集43巻13号879頁では次のように判断している。

 被害者の女性が被告人らによって注射された覚せい剤により錯乱状態に陥った午前0時半ころの時点において、直ちに被告人が救急医療を要請していれば、同女が年若く(当時13年)、生命力が旺盛で、特段の疾病がなかったことなどから、十中八九同女の救命が可能であったというのである。そうすると、同女の救命は合理的な疑いを超える程度に確実であったと認められるから、被告人がこのような措置をとることなく漫然同女をホテル客室に放置した行為と午前2時15分ころから午前4時ころまでの間に同女が同室で覚せい剤による急性心不全のため死亡した結果との間には、刑法上の因果関係があると認めるのが相当である。

十中八九の救命が可能だったという事実認定をして、その結果として、救命は合理的な疑いを超える程度に確実であったとした。
押尾被告人の事件でも、検察官はこの救命可能性について主張・立証していくことが予想されるが、致死の点を認めることは困難かも。

■遺棄等致死傷罪と不作為による殺人罪の違い

今年の新試の刑法ともつながる問題なんで、ちょっと確認。


山口厚「刑法各論」(第2版)38頁で、不作為による遺棄または不保護による被害者の死亡したケースで、行為者に人の死亡について予見がある場合、殺人罪が成立するのか、遺棄等致死傷罪が成立するのかという問題が書かれている。
ここで、前田説が「故意がある以上殺人罪が成立する見解」として紹介されているが、これは完全に間違い。
確かに、前田各論81頁をみると

 死傷につき故意が認定できれば、本条ではなく殺人罪、傷害罪に該当する。

と書かれている。
しかし、その後に

 遺棄罪を犯しその結果被害者が死亡した場合、その死につき予見が存在する場合はすべて殺人罪を構成するわけではない。例えば、交通事故を起こし、被害者は死ぬであろうと認識しつつ、仕方がないと逃げ去った行為を殺人罪として処断し得るであろうか。ここで、不作為の殺人罪を基礎づける作為義務の存否が問題となる。殺人罪の構成要件に該当するには、人を積極的に殺す行為と同視し得る程度の実行行為性がなければならない。

と書かれており、故意だけではなく、殺人罪が成立するためには殺人罪の実行行為性が認められることが必要とされることが前田説においても明らかにされている。おいおい、やまぐっちゃん、人の見解を引用するんだったらちゃんとその人の見解を読まないとダメだよ。という、ツッコミを入れざるを得ない。
なお、やまぐっちゃんも

 遺棄罪を生命・身体に対する危険犯と解する立場からは、遺棄罪の作為義務・保護責任と殺人罪の作為義務とは明らかに異なることになる。遺棄罪を生命に対する危険犯と理解する立場からも、遺棄罪の成立を基礎付ける生命に対する危険は比較的軽度の、直接死亡に直結するものでなくともよいから、両者は別意に解されることになる(遺棄罪における生命に対する危険は相対的に軽度のものをも含むので、傷害自体が遺棄等致死傷罪の加重結果として評価されることにもなっているのである)。こうして、死の予見があっても、殺人罪が成立しないことがある。殺人罪の成立を肯定するためには、死亡へと直結しうる具体的な危険の存在とそれを回避すべき保証人的地位、さらにはこれらの事情についての認識・予見が認められることが必要である。

と言うので、これは上述の前田説と矛盾するものではない。


いずれにしても、遺棄致死罪の実行行為性と殺人罪の実行行為性は、その危険性が異なるので、故意だけじゃなく、実行行為性もちゃんと検討しなければいけないってことか。間違っても、殺人の故意があるからとかいう理由だけで殺人罪を成立させるとイタイ目を見るようだ。


そういうことで、押尾被告人のケースでは、殺人の故意も、その実行行為性も立証することが難しいため殺人罪による起訴ではなく、抽象的危険犯に過ぎない保護責任者遺棄致死罪による起訴に至ったんだろう。
ただ、それでも致死の点まで押尾に帰責させることが可能化は別問題としてある。