裁判員裁判で無罪判決を出した本当の意義。の巻

無罪宣告の瞬間、驚きの声…遺族ら天井見上げる (読売新聞)
 10日、鹿児島地裁で言い渡された高齢夫婦殺害事件の判決公判は、午前10時の定刻から約40分遅れて始まり、白浜被告は濃紺のスーツに青のネクタイ、白いシャツ姿で入廷した。午前10時44分、平島正道裁判長が「被告人は無罪」と宣告すると、90ある傍聴席がほぼすべて埋まった法廷には、一瞬、驚きの声が上がった。

 一方、胸を張り、正面を見据えて主文の宣告を待っていた白浜被告は、無罪が告げられると、直立不動のまま表情は変えず、「はい」と返事をして、深々と頭を下げた。その後、被告人席に戻り、背筋を伸ばし、時折うなずくようなしぐさを見せながら、落ち着いた様子で判決理由を聞いた。

 この間、傍聴席の遺族らは天井を見上げたり、表情をこわばらせたりしながら、朗読に聞き入った。

 重圧と向き合ってきた裁判員たちは、裁判長の判決理由の朗読中、硬い表情のまま、白浜被告をじっと見つめていた。



[ 2010年12月10日14時38分 ]
http://news.www.infoseek.co.jp/topics/society/n_civic_trial2__20101210_4/story/20101210_yol_oyt1t00564/

判決文を見てないから、なんともいえないところなんだけれども、普通の人が普通に事実認定した結果、合理的な疑いを入れる余地があったということなら、裁判員制度はやっぱり正解だったんだなと思う。


袴田事件とか有名な事件だけれど、昔の裁判所って、実は、ものすごく歪な事実認定をして有罪にしてたりしてて、しかも、いったん確定してしまうと、あとで再審で覆そうとしてもまず不可能だったりする(新規性要件を欠くとか…)から、そういう歪な構造を一般人が介入することで是正できるのなら、裁判員制度はその意味で成功といえそうだ。


冤罪というのは、有罪にしろ、無罪にしろ、ものすごくやっかいな問題をはらむ。
いわゆる「白」であって潔白なら当然無罪なわけだが、我が国の法制度は真っ白じゃなくて、


「こいつ、黒かも。」


みたいな被告人でも、「グレー」にすぎない場合、つまり、「こいつがやった可能性がある。けど、やってない疑いを入れる余地あり」みたいなケースは、無罪にしなければならない。
これが、無罪推定の原則。


にもかかわらず、逆のことをすると、どうなるか?


つまり、
無実なのに、「有罪」としたら、


実は、2つの意味で重大な問題が生じる。


1つは、もちろん人権侵害の問題。
最近だと、DNA鑑定で再審無罪となった足利事件の菅家さんなんかは、身柄拘束が17年にも及んだ。
時間はお金では買えないとよく言う。誤って死刑を執行してしまえば、命も戻すことはできない。
これは、よく指摘される。だからこそ、推定無罪を原則にして、「黒」と判断できたときだけ人権を制約することを可能にしている。


もう1つは、あまり指摘されていないけれど、真犯人が自由の身になるということ。
袴田事件等の昔の裁判例は、この点を無視しすぎている嫌いがある。
つまり、検察側が犯人と主張している人間を有罪とすることによって、その事件は解決した「ことにする」ということだ。
これが冤罪で、他に真犯人がいるとすれば、遺族も浮かばれない。それだけじゃなく、社会に人殺しを放置することにもなりかねない。



今回の事件が、冤罪で、真犯人が他にいるのなら(新聞報道等を見る限りそう疑う合理的な疑いを入れる余地がある)、早くその被告人を無罪にして、捜査機関は再捜査して真犯人を見つけなければ、その真犯人の下、社会は危険にさらされてしまう。


だけれど、これまでの有罪99%以上の刑事事件で、こういう無罪判決がされると、それだけで、


「だから素人は云々……」



みたいな、薄っぺらいことを言う人もいるかもしれない。


まぁ、そう言いたい気持ちもわからないでもない。
「有罪判決にびびってやがる裁判員め!」
みたいな。


ただ、びびったかどうかは置いて、仮にそうでも、無罪を言い渡した理由は、結局、合理的な疑いを入れる余地があったという結論に至ったことにある点に変わらない。
その結論がびびったことを原因にしても、そういう疑う余地すらなかったら、そういう事実認定はできないわけで(合理的自由心証主義)、有罪にせざるを得ないようになってる。要するに、
「なんかびびったから、無罪!」
みたいなことは制度上無理なわけで。



とにかく、今後は、検察がこれに控訴して有罪を求めるかが注目。
最高裁裁判員裁判を重視するみたいなことを言っちゃったから、控訴しない可能性大だけれど。


検察は、被害者宅の窓硝子に被告人の指紋があるということを証拠としているが、それは過去に当該窓硝子に被告人が触れたということを意味することはあっても、そこから被害者を殺害したということにはならない。そもそも、いつ、どこで窓硝子に触れられたかは明らかにされないままだったわけだから、この事実から犯人性を結びつけることは難しい。窓硝子に他の指紋がなかったのか?あるとして、なぜ被告人だけが犯人といえるのか?
被告人以外の指紋がなかったとしても、それが犯行時よりもっと前において付着した指紋ではないのか?
こういう合理的な疑いを入れる余地がある。


被害者ももう少し考え直さなければならない部分があるんじゃないか?
コメントでは、控訴を望んでいるということらしいが、そもそも被告人が犯人じゃない可能性があるわけで、被告人が犯人だということを前提にしてものを考えることから、真犯人が他にいるかもしれないという可能性を考えることに変化させなければ、結局、被害者は浮かばれないことになりかねない。



詳しい事実がわかったら、また色々考察したいな。


参照ウィキ
wikipedia:袴田事件
wikipedia:足利事件
wikipedia:白鳥事件
白鳥事件は大学院時代に刑訴の先生に学んだ。ピストル射殺事件だわけだけれど、その使用されたピストルをはじめ物証が全然なくて、急に出てきたと思ったら、事件発生の2年前に練習で使ったと「される」弾を物証として提出。しかも、かなり腐食が進んでいて、鑑定人の意見が割れていた(先生の話では、証拠のねつ造の疑いすらあったというのだから、最近の検察問題は今にはじまった話ではないのだとつくづく感じる)。
裁判所はことごとく検察側の証拠のみを採用し、有罪となった。
なぜそのような偏った証拠採用をして事実認定したのか、真意は定かではないが、少なくとも、裁判員裁判であればそんな事実認定はしなかっただろ、と思われる事実認定。
wikipedia:名張毒ぶどう酒事件
今注目されている事件。農薬を入れたワインを飲ませて殺害した事件。①毒物による殺害という点、②情況証拠から毒物を混入することができたのは被告人だけ、という事実認定の点で和歌山カレー事件とすごく似ている。
第5次再審請求特別抗告審決定によれば、結局、有罪を支える事実は、被告人が当該毒物に当たる農薬を購入していたことと、その農薬を混入できたのが被告人だけだったという、犯行の場所と機会に関する状況証拠だけ。
当初、有罪の基礎とされた歯形の鑑定書等の証明力はないということはこの時点で確認されている。
この情況証拠に、自白調書があることからは、有罪とすることに疑いないという。
しかし、この自白も強要によるもので、刑訴法319条1項からすれば、おいおいと証拠能力認めんなよとつっこみたくなるような証拠である。
しかも、その情況証拠を支える証人による証言も紆余曲折、変遷ありで、そもそも信用性が低い証言だろと、たぶん普通の人なら思うはず。にもかかわらず、職業裁判官はそんな証言を信用して有罪。
そんなもろい事実認定によって有罪とされたが、7回目の再審請求でやっと再審開始の決定の予感。
とうのも、再審請求の1審では再審開始決定をしたのに、2審では、かなりへりくつをこねて1審の判断を覆したのだ。そこで、最高裁が、そのへりくつはおかしいからちゃんと見直しなさいということで、2審の高裁に差し戻されたのが今年の4月だ。
最高裁は、2審に対して、こう言う。

原判断は,「科学的知見に基づく検討をしたとはいえず,その推論過程に誤りがある疑いがあり,いまだ事実は解明されていないのであって,審理が尽くされているとはいえない。これが原決定に影響を及ぼすことは明らかであり,原決定を取り消さなければ著しく正義に反する」

ということで、へりくつを見直さなければならなくなった2審では、素直にこれを受け止めて再審開始決定をする可能性がかなり大きいということになる。
とすると、これまでの流れからみて、再審が開始されれば、無罪となる可能性が大きいので、ホットな話題だったりする。


他にも、こういう事件はたくさんあって、しかも、そのほとんどが大昔の事件が問題とされ、今更、無罪で真犯人はほかにいますた、なんていえない事情が、再審に踏み切れない本当のところなのかもしれない。


①それにしても、そもそもこういう危うい事実認定の下で有罪判決とされた場合でも、そもそも再審の開始すらままならない現状が法制度としておかしいんじゃね?ってよく指摘されてて、本当にその通りだなと思った。開始かどうかという門前で右往左往させるのではなく、とりあえず開始して、再審手続で証拠を精査して白黒はっきりさせろよ。


②まぁ、そういうことしたら、再審されまくられるかも、みたいなことを恐れているんだろうけど。


③なら、再審制度はどうすれば機能するんだと。→①に戻る。