「空気を読めるがあえて読まない」のと「空気を読めない」のは全然違う。の巻

朝井リョウという人が直木賞を受賞したというニュースをやっていた。


そこでは、朝井リョウのインタビューをやっていて、
「空気を読むのは止めましょう」
と言っていた。
好きなことをするためだという。


それ自体に異論をはさむつもりはないが、これは空気を読むことができることが前提だということを看過してしまう危険性があるように思う。


そもそも、空気を読むことすらできずに自分勝手なことをする人間というのが増えてきて困っているという、ゆとり世代に対する不平不満をよく耳にする。
こういう人ばかりではないのだけれど、こういったことを言われるゆとり世代の(一部の)人は、そもそも空気を読むという概念を観念することすらできない、もしくは、空気を読めてもそういうのは軽視して自己中心的な世界を構築する傾向にあるように思う。


こういう人間は、むしろ
「空気読めよ」
と言われてしまうんではないだろうか。


という自分自身も空気を(あえて)読まないで言いたいことを言うこともある。
だからこそ、誤ったことをを言ったのならば素直にそれを認めて謝罪するように心がけている。
しかし、それはそういう発言をした責任を負うつもりでやっていることで、そもそも空気を読めないまま発言の責任を負うつもりもない人間とは違う。


自由には責任がつきまとうという当たり前のことを理解していない若年層が多いのは、そういうことだろう。


幸いにも、自分の周りにそういうアホな人間はいない(ように思う)。
間違っていることを指摘して、それを省みることができる友人が多い。
だから、自分も嫌がられるようなことでも、必要ならば言うことができるように思う。


そこで思うのは、朝井リョウがアホ世代に対しても公共の電波を使って、翻意ではないかもしれないが、
「空気を読むのは止めましょう」
ということで、責任を負うつもりがない無責任な自由を是認したように映ってしまったということだ。
これは問題だろう。


テレビは電波法によって管理された公共の電波を使うことを特別に許されて放送できるものであり、老若男女、アホから天才まで色んな人が観ているわけで、そこではアホに対するアホみたいな配慮が要求されるのである。


とはいえ、ほんの少しの配慮でよかった。
「空気を読むのは止めましょう」
の後に
「ただ、空気を読むことができるようにはなりましょう」
ということを言えばよかったのである。
これによって、
「空気を読める」
「だがあえて空気は読まない」
という選択を自らすることができる。


これは、そもそも空気を読めない人間とは大きく異なる。
「空気が読めるにもかかわらず、空気を読まないことをする」
という自己決定には、責任を負うことを前提とされる。空気を読まない責任である。
しかし、空気を読めない人間には、そういう責任を負うかどうかの選択肢すらないのである。空気を読めないため、そもそも「責任」ということを観念できないからである。
責任を負うことすら無意識に放棄して勝手なことをするのは、自己中心的なテロリストと同じだろう。


そういうテロリスト的人間に限って、
「空気を読むのは止めましょう」

「ただ、空気を読むことができるようにはなりましょう」
という上の2つの文章は矛盾しています。なぜですか?


なんてアホなことを言う。
この意味すら理解できないようでは、救いようがないわけだが、それはこういう人間に育ててしまった親、学校、ひいては社会がその責任の一端を担っているということも事実だろう。
とはいえ、そういう人間になった本人自身が1番問題ありなのは言うまでもない。

と、久しぶりに思った。