グレーな奴をどうしましょうか?の巻
だっつぁんからの依頼。
「姫路の花火の事件」について。
2001年7月、明石市の花火大会の見物客十一人が死亡した歩道橋事故があった。
警察は花火大会でいっぱいの人がいて道路交通において事故が起きないように、道路交通の管理をしなければならない。この道路交通の管理ミスによって人が死亡したりしたら、業務上過失致死罪が成立する余地がある。
この事故について業務上過失致死傷罪の容疑で書類送検され不起訴となった当時の永田裕明石署長(63)と榊和晄副署長(59)*1について、神戸検察審査会から二度「起訴相当」の議決を受け再捜査していた神戸地検は23日までに、二人を嫌疑不十分で三度目の不起訴処分とした。地検は、三度目の捜査でも新たな証拠はなく、二人の「刑事責任は問えない」と判断した。
要するに、容疑者は自由の身になったということである。
たしかに、事故の責任者がいるのに刑事上の責任を負わないというのは、「おかしいなぁ」と感じる。
被害者「ちゃんと責任をとれ!!そして、そのために訴追しろ検察!!」(;`O´)oコラー!
被害者なら当然の気持ちである。
しかし、国民の感覚からすれば、多くの人が「なぜ!?」と思うことが法律の世界では結構ある。これもその中のひとつ。
これからが難しい話になる。
そもそも、犯罪者が犯罪者となる理由は、罪を犯したからではないのである。
これすっごい違和感を感じない?
( ̄ェ ̄;) 「エッ??犯罪者は、罪を犯してるだろ〜??」
これは正解。たしかに、犯罪者は罪を犯した人である*2。しかし、ここで言いたいのは、罪を犯した人間がすべて裁判を通じて有罪となるわけではないということなのである。
例えば、未成年がお酒を飲むのは法律で禁止されていて、親は未成年の子がお酒を飲むのを止めなければならない。これに違反したら、この親は千円以上一万円以下のお金を剥奪する科料という刑が科される(未成年者飲酒禁止法1条2項・3条2項)。
しかし、そんな理由で親が刑に処せられた話は聞いたことないでしょ。仮に警察官がこの現場に立ち会っても、ちょっとお説教されて終了である。
罪を犯して、かつ、罪を犯した者が訴追されて裁判を通じて有罪と判断されない限り犯罪者とはならないのである。「有罪」というラベルを貼られない限り、犯罪者ではないのである。
法律の建前は、以上のようになっている。現実社会では、被疑者として逮捕されたら有罪と考えられがちであるが、法の世界では有罪というラベルが貼られるまで無罪が推定されるのである。こういう法の建前は、人権保障からきている。
刑罰は最も人権を侵害するいわば「害悪」なのである。歴史的にも国の制度上においてこの害悪たる刑罰が恣意的に運用されることが多々あった*3。そこで、その後はいかにこの害悪である刑罰の恣意的運用を抑制するかが課題になった。
ここで、でっかい問題にぶちあたることとなる。
刑罰がなくては、犯罪したい放題の無法治国家となること必至。犯罪を減らしたいなら犯罪をした人すべてに刑罰を適用することが効果的である。これによりみんなは犯罪したら絶対つかまるしやめとこ。という気持ちに普通の人はなる。この効果を一般予防という。しかし、この一般予防効果を狙って、漏れなく犯罪者を捕まえていくと、犯罪を行ったかどうかがいまいちはっきりしないグレーな奴も出てくる。このグレーな奴がやっかいでかつでっかい問題となる。
すなわち、
罪を犯したかもしれないグレーな奴を有罪にするのか、それとも無罪にするのか
結論からいうと、法は、グレーな奴は無罪にする。という結論に至ったのである。
たしかに、グレーな奴は、犯罪行為をした可能性がある。しかし、逆にしてない可能性もある。仮に、やっていない人間を死刑にした日には取り返しがつかない。そんなリスクをおかしてまで、グレーな奴を有罪にはできない。犯罪者が自由になる社会的なリスクよりも、やっていない奴が有罪になるリスクの方が重いから、社会的なリスクよりもやっていない奴の人権保障を優先させたのである。*4
だから、現在はグレーな奴のままでは、裁判所は有罪=犯罪者と認定することが無理なのである。要するに、刑事訴訟においてグレーから黒だと証明できるだけの証拠が必要なのである。
姫路の事件では、黒にするだけの証拠がそろわないため、結局このまま訴追しても無罪となってしまう。訴訟経済上、無駄な訴訟になってしまうので、訴追は断念。
というわけである。
ただ、本気で頑張れば黒にできたんじゃねーの?という疑問符が残る事件のような気もする。
うお。ひさしぶりにいっぱい書いたなぁ。