被害者と犯人ってどんな関係?の巻

ふむふむ。なるほど。たしかに、日本の刑事事件では被害者が【部外者】扱いされてる点はあるかもしれないなぁ。


しかし、ここは要注意である!!


被疑者・犯人の人権を考えることと、被害者のことを考えること。この両者は密接に関係しながらも、視点はまるで違うものだったりするということである。まぁ、よく考えれば当然といえば当然ではある。


たしかに、被害者救済という点は不十分でまだまだ考えなければならない点があるというのは事実。最近は、その点を考慮して被害者救済のための立法や法改正がなされている。


しかし、そのときに最も重要な視点は、「どうすれば被害者が救われるのだろうか?」という視点なのである。


この視点は、加害者が死刑になることによって「救済完了!!」となるわけではない。
加害者が死んでも被害者は元に戻ることはない。
ただ、被害者感情として、最低限、加害者を極刑にすべき!!という視点は、加害者に対して反映される。
現に、死刑基準において判例は、特に殺害被害者数、遺族の被害感情といった面を考慮して死刑を決している。この意味で、やはり被害者の立場を、社会通念に従った客観的な見方ではあるが考慮している。

死刑適用基準(永山基準
死刑の選択は①犯罪の性質②犯行の動機③犯行態様、特に殺害方法の執拗さ、残虐さ④結果の重大さ、特に殺害被害者数⑤遺族の被害感情⑥社会的影響⑦犯人の年齢⑧前科⑨犯行後の情状―を考察し、その刑事責任が極めて重大で、罪と罰の均衡や犯罪予防の観点からもやむを得ない場合に許される


これで、満足に被害者は救済されているといえるのか?といえば、そうではないだろう。


強姦されたあげくコンクリ詰めにされた女の子の事件なんかで、その子の親はどう思っているのだろう?
そんなことを想像しても、やっぱり本人達の苦しみを実感させてくれることはできない。
しかし、想像しただけで、やるせない。げんなりした。


こんな被害者をどうしたら救済できるのか?そんな方法はあんのか?刑事司法の枠組みでいえば、加害者に刑を科すくらいしかできないけど、そんなの救済という点からいったら、まだまだ足りないし、むしろそんなことはどうでもいいとすら思っているのかもしれない。死んだ我が子が帰ってきたら何も望まないかもしれない。
わからないのである。結局、どうしたら被害者のこころが癒されて、元に戻せるのかが。
だからといって、何もしないわけではない。やっぱり被害者救済のために何ができるか?この視点は原理原則みたいなもので、出発点である。


しかし、加害者をどのように刑事司法において処理すべきか?という視点は、様々な政策的考慮を必要とする。


そして、結局1番重要な要素は、やっぱり①一般予防と②特別予防だと思う。すなわち、①どうしたら犯罪を抑止できるかという視点と、②犯罪者をどう更生させて、社会に還元させるのか、ということが刑事司法においては、最も重要だろう。


たしかに、「人権!じんけん!!」といって、犯罪者を保護する一方で、被害者救済の方にはあまり関心がないというのは矛盾を感じる。
しかし、他方で、被害者救済のために、「犯罪者は極刑!!」というのも論理が飛躍しているような気もする。もちろん、被害者のことを思えば加害者は許せない!!という気持ちはわかる。
でも、中学生くらいの娘を強姦してその子は鬱病になってしまった場合も、サリンをまかれて脳に重大な障害を負った場合でも、子供を殺された場合でも、被害者はみんな加害者は許せないという感情は同じくある。いずれの被害者も加害者を殺したいと思うかもしれない。


しかし、「人を殺したわけではないのだから、死刑はやりすぎ」


といった相対的応報刑の考え方が国民の一般的感覚としてはあるといっていいだろう。もちろん、このような感覚は妥当だと思う。やっぱり被害者感情のみによって、量刑が決まるわけではないのである。


ただ、被害者の救済という問題はなお残ると考えなければならない。
裁判所「罰をちゃんと与えといたから、被害者さんはいいですよね」
ということではダメなのである。
被害者救済。窃盗罪なんかだと簡単かもしれない。金銭による救済が可能だからである。
しかし、「人の死」という損害の賠償システムは、司法制度においては金銭でしか担保されていない。


じゃあ、「被害者の気持ち」はどう救済するのか?


現時点では、そのような救済システムはないといっていいだろう。もちろん、私的なボランティア団体や行政は被害者の心理ケア活動をしているかもしれないが、少なくとも司法システムにおいてそのような救済手段は金銭以外ないのである。


心の問題。これほどやっかいなものはない。法の限界というやつかもしれない。


しかし、結局、これはこれ。やっぱり犯罪者の人権は憲法上保障されているわけである。

矛盾といえば、そうかもしれない。だから、自分はこう考えることにしている。


被疑者の人権を侵害。例えば、違法な自白採取や証拠のねつ造。こんなことをしたら、被疑者・被告人の有する黙秘権や裁判を受ける権利を害する。
 ↓
こんなことをしたら、客観的真実にもとづいた判断ができない。
 ↓
誤判の危険性あり!∵判断を誤りやすくなるから。
 ↓
犯人じゃない人を犯人と判断することになる
 ↓
本当の犯人は、のうのうと世間で生きている
 ↓
さらに被害者を増やしてしまう危険がある=被害者救済の必要性が生じる
 ↓
一般の人にとっても、犯人が平気で過ごす社会を是認することになってしまい危険
 ↓
人権を保障することによって、客観的真実にもとづいた判断が可能
 ↓
真の犯罪者を認定しやすい制度となる


こう考えたら、被疑者・被告人の人権を保障することは、間接的には被害者救済に資する。少なくとも、真の犯罪者を無実のまま世の中にはびこらすことをある程度予防できるからである。


では、こんな場合はどうだろうか。
人権を侵害した自白の採取であるが、その被疑者が本当に犯人だった場合。
このような場合においても、真の犯人である者の人権を守ることに意味があるのだろうか。


この場合でも、人権を保障することに意味があるのだ。
人って実は経験則からして、一定の法則がある。
その経験則に照らせば、次のようなことになることは容易に考えられる。
すなわち、今回の人権侵害は、真犯人であったから許す!!なんてことになったら必ず、真犯人でなくてもそのような人権侵害をするケースが生じるということである。
なぜそういえるかというと、裁判所における真実は、訴訟の過程で真実の有無をみきわめていく作業を通じて明らかにされていく。それゆえ、捜査機関が犯人だと思っても、実は間違いであったということはあり得る。
しかし、犯人を発見しようとする捜査機関は、人権侵害をしているときも犯人だと思いこんでやっているのだから、この場合に犯人ではないから人権侵害はダメ!なんてことに気づく動機がないのである。
そのため、「真犯人だから人権侵害やってもイイよ」というルールは、無意味なルールとなるのである。
だから、真犯人だということを理由に人権侵害を許すというようなことは許容できない。


被害者救済との関係でもこう考えるべきだと思う。
たまたま人権侵害をした相手が真犯人であった場合でも、この1回を許すと、それ以外にも人権侵害が生じるというのは今述べたが、これはすなわち、誤判の危険性を増やすということを意味する。これも先に述べた。


では、この事例で人権侵害した上ででてきた証拠を認めてよいのか。わかりやすく、単純にすれば人権侵害した場合、犯人であっても無罪とすべきか有罪とすべきか?という問題としよう。


今言った理論をあてはめれば、人権侵害した以上は無罪とすべきとなる。
これでは、被害者救済につながらないのではないか。という疑問が生じる。
しかし、この1回を認めることによって、今後の捜査方法に大きな影響を与えることは今言った通りである。
すなわち、この問題は、①今回の犯人を有罪にして、今後は真犯人ではない人間を有罪とするリスクをとるか、②今回限りは真犯人だけれど無罪にするが、今後も客観的真実にもとづいた判断を可能にして誤判のリスクをとらないようにするか?という2者択一の問題に帰着する。


ここまできたら、答えは明白である。②である。


これは、数の論理である。単純に今回1回限りの無罪にして真犯人が1人世に出ることを認めるのか、今後真犯人が捕まりにくいシステムにして多くの真犯人がいるような世の中にしてしまうのか。この両者を天秤にかければ、前者をとるべきことは明らかである。
たしかに、1人の被害者は救済されないかもしれない。しかし、今後、被害者がたくさん出るようなシステムにしてしまうよりはマシである。違法排除法則もこんな考え方からは整合的である*1


以上のように考えれば、被疑者・被告人の人権を守るということは、新たな被害者を出さないという意味で両者は矛盾しない関係を築けるのではないだろうか。

*1:もっとも、判例は違法排除法則限定に適用することによって真犯人と考えられる者はやはり有罪としている。司法制度の適正化の要請と真実発見との調整とみることができる