伝聞証拠スペシャル2〜証拠の意味と伝聞・非伝聞の境目〜の巻

今日は、もうちょっと刑事訴訟における「証拠」ってものを掘り下げて、伝聞証拠と非伝聞証拠との関係をみてみる。


伝聞証拠は証拠であるのだから立証に用いられるものである。
この立証は、犯罪の成立を明らかにするためになされる。
検察官は、「犯罪の証明=有罪」という目的に向けて立証活動をする。
これは検察官が証明すべきは犯罪事実であるということを意味する。これは前回やった。今回は、その犯罪事実の証明が証拠によらなければならない、という意味を考えてみる。

そもそも、刑事訴訟の目的は、公訴提起された事件について被告人に刑罰を科すことができるか否かの確定にある。
そして、それは①事実認定、すなわち検察官の主張する一定の犯罪事実が認められるか否かの確定と、②事実認定の結果、明らかにされた事実に法を適用すること、これらのプロセスによってなされる。

注意すべきは、刑事訴訟とは、被告人に刑罰という人権侵害を適法ならしめるためのプロセスだということである。
例えば、死刑なんて生命侵害が適法に定められたプロセス(死刑判決とその執行)を経れば許されるのである。

こんなことは、みんなも知ってる当たり前のこと。しかし、これってよく考えてみると結構すごいことである。
少し憲法なんかを勉強すると、人権というものがいかに重要で守らなければならないものであるかということを知る。
しかし、最も重要な生命という法益を、国家の手によって奪うことが適法に認められるのだ。

憲法で国家から人権を保障しなければならないという一方で、国家による人権剥奪を国民は是認している。これじゃ、なんか違和感を感じるかもしれない。

しかし、人権といってもなんでもありではない。凶悪犯罪者がいて法の適用の結果、死刑判決がでたとしても、不当な量刑だったり、はたまた死刑廃止論者でない限り、このような結論は一般的に国民はこれを是認されている。オーム真理教の麻原さんの死刑判決なんかを考えれば世論と判決はおおむね一致してるところだろう。

色々説明の仕方があるが、憲法自身が刑罰制度を前提にしているし、「一家惨殺の強盗殺人なんかやらかした奴の人権ばかり保護するのはやっぱり変だろ」、というのが普通の感覚である。この点における国民の価値観は人権保障の理念と矛盾しない。むしろ、そのような犯罪によって侵害される人権を保障すべきなのだから、国家によって人権を侵害する者から被害者の人権を守ることは憲法の理念に資する。


だがしかし、これはちゃんと刑事訴訟において適正なプロセスを経て犯罪事実の存在が明らかにされたといえる場合にのみ当てはまる。事件が起こったのに、適当に犯罪者っぽい奴を捕まえ、適当に「有罪!」なんてことになって、真の犯人を野放しにしちゃったりしたら、以上に述べた憲法理念に著しく反することになる。これって最悪の事態なのだ。無実の罪であるのに有罪判決がなされる結果、本来なら人権を守られるべき無実の人が人権をひどく侵害されることになるし、しかも犯罪者は自由の身なのである。危険である!

「警察もアホやないねんから、そんなことにはならんやろ」

たしかにそうかもしれない。しかし、歴史的にはそんな悠長なことを言ってる場合でないような実態があった。
昔は、「犯罪事実の認定が自白によらなければならない!」なんてことが定められていたのだ。これがどんな事態を招くのかということをよく考えなければならない!それが今の制度の始まりだったのだ。
犯罪事実が科学的見地に基づかない自白の有無によって決まる、ということは、次のようなことを招いたのだ。
それは、警察は事件が発生したら自分のお仕事、すなわち犯人を捕まえる、という作業にかかる。もちろん、犯人だと思って捕まえる際には、身体を拘束されるわけで、要するに個人の自由を侵害されるのである。そのため、本来なら細心の注意を払わなければならない。しかし、仮に細心の注意を払って被疑者の身柄を確保しても、事情聴取した結果、「あれ?、実はやってないな」なんてことになる場合はある。当然である。人間のやることなんだからやっぱり間違うこともある。最近でも選挙事件で無罪なんてのがあったけど、あれなんて自白偏重で客観的証拠がなかった典型例である。


まぁ、よくよく考えてみると人のやることなんてそんなもんかもしれない。
だって、「おまえがやったな!」なんてことを前提で取調べを今でもやるわけで、「実は間違えちゃった。テヘッ。」なんてことは、疑われていた被疑者の方からするとたまったもんじゃないし、今更、自分のやった捜査が間違いだったなんて、捜査してきた本人からは認めたくないだろう。それが人の心理である。
そんなこともあって、被疑者にいったんされてしまうと、自白獲得のためあらゆる手段を使って警察は被疑者を「落とし」にかかる。そしてこれが有罪の証拠となったのである。だから、「自白は証拠の女王」なんていわれる。
しかし、こうなる本当は無実なのに被疑者にされてしまったがために有罪とされてしまう人がいっぱいでてきた。20日間も寝る間もなくひどい取調べが続き、
被疑者「とりあえずこの取調べだけでもやめて欲しい」
そんな気持ちから、やってもいないのに自白するなんてケースがたくさんあった。そのため、えん罪事件がたくさん起こった。
しかし、さっきも言ったようにこれでは真の犯人は自由なわけで、しかも無実の人間の人権はひどく侵害されるわけである。人生さえ左右させる、それがえん罪事件である。


無実の人「やってないのに、死刑って、なんで!?」


無実の人であるのに個人主義自由主義なんてものはどこにもなかったのである。
そこで、現在の制度の前提となった憲法の精神からするとこんなことだけは絶対避けないとだめ!ってなったのだ。
憲法的な価値観は次のようなものである。すなわち、
犯罪者に刑罰を執行するよりも、無実の者の自由を絶対に守る。
というものである。これが、「疑わしいときは被告人の利益に」という考えにつながる。つまり、疑わしいわけではあるが、こいつがやったんだな、という確信もない。それゆえ、こいつがやったかもしれないが、しかし、やってない可能性も捨てきれない。そんなときは、仮に3%でもやってないといえる以上、被告人の有利に考えるべきだ!と、そういうのである。つまり、被告人が犯罪者ではないという可能性3%に該当したときのことを考えてやるのである。これが被告人の利益に、という意味である。


とまぁ、それくらい人権というものを重視して、無実の人が適法な形式を備えた刑罰を与えられないように刑事手続制度の仕組みを作ったのである。もちろん犯罪者に刑罰権を実現するという要請も考えての制度である。


えん罪をつくらない。そのため、刑事訴訟法317条は、「事実の認定は、証拠による。」と規定する。
刑事訴訟における犯罪事実の認定は、証拠に基づかなければならないということである。これを証拠裁判主義という。

この証拠裁判主義は、訴訟における事実の存否は証拠に基づく合理的なものでなければならないとするものであり、近代裁判の大原則なのである。

そもそも、犯罪事実の認定は、神でもない人間による過去の事実の認定であり、しかもさっき言ったように有罪判決は人の人生を大きく左右するものなのだから、慎重になされなければならない。それゆえ、証拠裁判主義が採用されている。

したがって、検察官は犯罪事実を証拠によって証明しなければならない。
ここでいう証拠とは、証拠能力・証明力があり適式の証拠調べを経た証拠でなければならない。
そのため、証拠能力が認められていない伝聞証拠は、犯罪事実の証明にはつかえないのである。
その理由については、第1回目でやった。

しかし、伝聞証拠に証拠能力を認める例外がかなり広く認められている。
今日は伝聞例外についてやろうと思ったのだけれども、重要な問題がある。


そもそも伝聞証拠に該当するか否か。この基準は何なのか?


証拠能力が認められない伝聞証拠とは、公判廷に顕出される書面、または、公判期日外でなされた供述を内容とし、その供述内容の真実性を証明するために使われるときの公判廷の供述

これが伝聞証拠である。

したがって、公判廷に顕出される書面、または、公判期日外でなされた供述を内容とするものであっても、常に伝聞証拠になるわけではない。
伝聞証拠にあたるかどうかの区別は、何を立証したいのかで決まる。すなわち、要証事実との関係で決まるのだ。


例えば
「Aは『Bが万引きをした』と言った」とYが証言した場合である。ここでの供述証拠は、Yの証言による公判期日外でなされたAの供述(「Aは『Bが万引きをした』と言った」)である。
この場合、Bの万引きの事実を立証するための供述証拠ならば、Yの証言は、その供述内容(Bの万引き)の真実性を証明するために使われるものである。Bが万引きをしたのかどうかの確認は、それを目撃したAに反対尋問しなければ明らかにされない。Yに反対尋問しても「Aはそう言っていた」なんてことしか明らかにされないので、Bの万引きは明らかにならない。この場合のYの証言は、伝聞証拠に該当することになる。
しかし、Bに対する名誉毀損の事実が要証事実ならば、Yの証言は、その供述内容(Bの万引き)の真実性は関係ない。Bが万引きをしたかどうかではなく、Aが「Bが万引きをした」と言ったのかどうかということが要証事実である。この場合、Y自らが経験した事実(Aから話を聞いた)を証言している。これなら、Yに対して名誉毀損の事実を確認するために反対尋問することが可能である。これは、そもそも伝聞証拠ではない。


要するに、公判期日外でなされた供述を内容とするもの(Aの言った内容)であっても、要証事実との関係でAの言っていた供述内容の真実性を証明するかどうかで伝聞証拠かどうかが決まるのである。
Bの窃盗の場合、Aの言った内容の真実性が問題となる。しかし、Bの窃盗というAの言った内容ではなく、Aがそのようなことを言ったかどうかが問題となる名誉毀損においては、Bの窃盗というAの発言内容の真実性は問題とならない。
これが伝聞証拠か非伝聞証拠かの違いなのである。このように一見すると伝聞証拠と思えるものでも、そもそも伝聞証拠ではないという場合がある。非伝聞にあたる場合は、試験委員である寺崎先生の分類に従って見てみると次のようになる(寺崎嘉博「刑事訴訟法」320頁以下参照)。ここでは、反対尋問によって吟味することが可能かどうかがポイントとなる!!

  1. 要証事実の一部としての供述
  2. 行為の一部としての供述
  3. 間接証拠としての供述
  4. 精神状態の供述
  5. 自然発生的な供述

1 要証事実の一部としての供述
Aが「俺は今人を殺してきた。1人殺すも2人殺すも同じだ」と言って、Yを脅迫した場合、Aの殺人行為を立証するためのYの証言は伝聞である。しかし、脅迫を受けた事実を立証する場合、Aの発言内容の真実性は問題ではなく、Yが実際に見聞きした事実の証言であるので、伝聞ではない。


2 行為の一部としての供述
国会議員Xに対するAの金員受渡しを目撃したYが、「受け渡しに際し、Aが『国会追及、お手柔らかに』と言っていた」と証言した場合、Aの言葉によって金員受渡しが贈賄の意図であることが明らかになる。この言葉は受渡し行為の一部と考えられるので、Aの発言内容の真実性は問題ではない。それゆえ、伝聞ではない。



以上の1、2は、原供述者Aの供述が要証事実である場合、一見Yは伝聞者のようであるが、実はY自らが体験者であり、すなわちYが原供述者なのである。それゆえ、伝聞とはならない。つまり、Yに対する反対尋問が有効に機能するのである。



3 間接証拠としての供述
Aがそのような言葉を述べたことをAの責任能力の欠如を推認させる状況証拠=間接証拠として用いようとする場合である。
例えば、「俺はキリストだ!」とAが言うのを聞いたYがその旨を証言する場合に、Yの証言をAの精神異常を推認するために使う場合、Aの発言内容、つまりAがキリストの生まれ変わりであることを証明するわけではない。それゆえ、Aの発言内容の真実性は問題ではない。それゆえ、伝聞ではない。
「俺はキリストだ!」と言うAの知覚・記憶の確認は意味をなさない。Aに対する反対尋問によってその表現の誠実性、叙述の適切さを吟味することが考えられるが、Yに対しても同じような吟味が可能である。


4 精神状態の供述
精神状態の供述とは、感情や意思など自分の精神状態についての供述である。原供述者が自分の精神状態を供述しているのだから、知覚、記憶の正確性は重要ではない。表現(嘘でない、誠実な発言かどうか)、叙述(適切な言葉を用いて正しく表現しているか)が問題となるが、ここでも要証事実との関係で伝聞かどうかが決まる。
例えば、強姦致死の被害者A子が被告人Xのことを「あの人はすかん、いやらしいことばかりする」と言っていた、とA子の愛人だったY男が証言した場合、Xの犯行動機を認定するためにY男の証言を用いるのであれば、A子の発言内容の真実性が問題となるため、伝聞証拠に該当する。
しかし、A子がXに対して嫌悪の感情を抱いていたということを立証しようとするのであれば、A子の供述の誠実性や適切性を吟味、つまりA子は実はXのことをスキだったが、嘘を言っただけではないのか?とか、表現面と真に表したい事とをわざと反対にし、しかも真意をほのめかす表現として言ったのではないのか?、ということを吟味することが可能である。これは、Y男への反対尋問によってなす事が可能である。それゆえ、伝聞証拠ではない供述証拠なのである。



以上、3、4は、原供述者の表現は誠実か?、適切な用語による叙述か?といった点が問題となる。


5 自然発生的な供述
自然発生的な供述とは、例えば、殺人現場を目撃した人が「キャー!!」とか叫ぶような、考慮の暇なく衝動的になされたとっさの叫びである。この供述は伝聞例外だ!という説と非伝聞だ!という説があるが、これは伝聞例外やってから勉強しましょう。


まとめ
以上のように、公判期日外でなされた供述を内容とするものであっても、これが伝聞証拠となるのかどうかは、要証事実との関係で決まるのである。つまり、証言者の経験した事実が要証事実との関係で証拠となるのであれば反対尋問によって真実性を吟味できるので、これは伝聞証拠ではないが、しかし、証言者の経験した事実以外を反対尋問でチェックできない場合、すなわち公判廷期日外でなされた供述内容の真実性が問題なるものは伝聞証拠ということになる。
繰り返しになるが、要するに、要証事実との関係において証言者に対して反対尋問を行いその証言の真実性を吟味できるかどうかが、伝聞証拠となるのかどうかの分水嶺となる。ここがポイント!


何が非伝聞となるのか?というのは、はじめはややこしく感じられる。だから、まずは問題となった判例をまず押さえること!基本は判例である。それがわかればきっと試験でも困らないのである。その代わり、判例の理解は正確にちゃんと押さえるのだ。

今日も伝聞例外いけなかったけど、次回!