自己満日記だから読む価値のない内容でした。の巻

まいど〜。


クリリンの次は、どのあたりの戦闘力なんだろう?


そんなこと考えながら、ファイト一発で勉強してます。


なんかさぁ。
おいちゃんももう三十路でさぁ。
なんか、もう、色々とさぁ、しんみりしちゃうときがあったりなかったり。まぁ、あるんだけどね。
ニートでさぁ、勉強ずっとやっとるわけですわ。そりゃ思いますわ。人生とか。


にーやんの日記を開始したのが2006年2月13日。
まだ26歳のころでした。
気がつくと4年経ってた。

当時、ロースクールも行けるかどうかわかんない、ハナタレ小僧でしたわ。
ほんと運良く京都のロースクールに奇跡的に受かって、自分が一番びっくりしましたわ。
まぁ、なんやかんやで、あっという間に卒業ですわ。
大学時代はバンドばっかりで、今流行りのけいおん!に夢中でしたわ。
今思うと、早くから司法試験の勉強してたら、今頃、弁護士なんかな?とか、まわりの友達を見てたら思ってしまったりするわけですわ。
んな簡単じゃないことなんてわかっとります。おいちゃんの「努力不足」、この一言に尽きます。



あぁ、面目ないです。



これは受け控えの日にやったんで、今はとにかく合格を目標にして勉強してます。
反省は大事だが、それを次に活かすことの方が大事だということはわかりきったことなんでした。
そう簡単にいかないのも人間でしてね。はっはっはっ(米笑)。


なんかさすがに4年も自己満ではあるけれどブログ書いてると、色んな人が見てくれてるんだなぁ、とか当たり前なんだけれど、実感するときがございます。


で、自分も色んな人のブログを見る機会も増えました。


人それぞれ、色んな理由でブログやってるんだろうけれど、
自分の場合は明確でして、それは


    自己満足


これ以上でもこれ以下でもないと。
わけわからん奴が、わけわからんことを言う。そういうもんでいいんじゃね?とか思ってます。
だからきっと
「こいつ最低」とか「こいつばっかじゃねーの」とか、
まぁいずれも当てはまりそうなところが残念なにーやんですが、まぁそういうのもひっくるめて自分なんだという覚悟で、顔も名前も見えない場所でくらい、少々の悪態をついてもいいんじゃないかとか、そんな感じでこれからも書き続けたいなぁとか思ってます。
ただ、飽き性なんで、いつ急に「完」を迎えるかわかんないけど…
とりあえず、結構続いた方だと思う。
まぁ、そんなかる〜いかる〜い気持ちで行きたいなぁ、とか思ってるわけですわ。


でも、今まで日記なんて付けたことなんてなかったわけで、意外と文章を思いのまま書き連ねるっていうのは、おもしろいということに気づきました。
おもしろいというか、自分の場合、ストレス発散してるだけじゃね?とか、もうその通りだわ。
こう思うのも、答案とか書くときは「いかに限られた中で内容を詰めるか」ということばっかりで、真逆のことしてるからかもなぁ。


で、いきなりやけど、前々から思ってたことがある。
命題は「言っても変わらない人間がいるか」
例えば、人殺しの極悪人の中で、もはや何言っても変わらない極悪人ってのが(1人でも)存在するのか?
それとも誰もがみな善人とまではいわないが一般人程度には変わることができるのか?
この時点で、いろいろと前提にムリがあるわけだがまぁ一般論だ。


大学生くらいまでは、
「どんな人でもいつかは変わることができる」
とか思ってたけど、
「言っても解らない奴はいる」
ということも思う。
一見、矛盾するようだけれど、俺は両立すると思う。というのも、結局、その人の気持ちの問題だから。
つまり、本人が「変わりたい!」と思って努力すれば、大変かもしれないけれど変わることはできると思う。けれど、そもそもそういうこと自体思わなければ自分を変えることはできないし、そういう人に何を言っても無駄に終わるということもあり得るから。
もちろん、友達なんかの発言をきっかけに変わる人も多い。
というのも、にーやんはニートなのに、周りの人はもちろんお仕事をなさってる人が多くて、そういう人から似たようなことを相談されたり、愚痴されたりするわけですわ。
「あの上司は〜」とか「あの同僚は〜」とか「ゆとり満開の新入社員は〜」とか、
全部、共通してるのが、愚痴の矛先を向けられた人は、そもそもその愚痴の内容について自分を変えようという気持ちがない人が多かったり、また、上司なんかにはそういう愚痴もいえないので、相手にそもそもきっかけもない場合なんががほとんど。
中には、言ったけど、その相手は自己防衛的に逆ギレ、とか。


まぁ、こういうのは良くある話だと思うんですわ。
ニート的には、「まぁ職場の人間を選ぶ権利は普通ないから、そういう人とも一緒になるわな。」とか思うわけですが、みんな他人に言えない不満が多そうです。


「愚痴る前に、それが正しいんなら直接本人に言えば?」


そんな風にも思ったりするけれど、まぁ、言えない事情があるみたいで、まぁそういうことは言いにくいもんだ。


いや、それはいいんだが、多分、色んな人と接する人ほど、「言っても解らない奴はいる」と思うんじゃないか?って、気がした。
もちろん全員が全員そういうわけではない。
中にはそういう例外もいるって話。


で、そういう類の人で、しかもそれが極悪人とかだったら…
例えば、むしゃくしゃして、絶対に体力的に劣っている小学生くらいのしかも女の子を殺したいと思う人。しかもそれが、むしゃくしゃしたという理由で、ただ弱い者に対してそうしたかっただけという場合。
いや、これでも伝わらないなぁ…
とくかく、自己中な理由で理不尽で残酷なことを平気でできる人だったら。しかも、何を言っても、
「自分は正しい」
「間違ってるのは、自分以外、社会、環境」
とか、思ってる人。
で、しかもそういった自己中な理由で、人殺しも平気という人。つまり、人を殺しても、それは仕方がない、自分が悪いワケじゃないから。と、そういう思考の人。


そりゃ、世の中にこんな人はめったにいないわけで、けれども、「めったにいないだけ」に過ぎないわけでもある。


と、ここからが本題なわけだが(えー)
刑罰に死刑ってあるやん。
生命を奪う刑罰なわけやけど、これが一番重い刑とされてる。
人間そのものを消滅させるわけだから、これを国家が適法に行うと思うとちょっとちびりそうになる。
で、他方では、どんな極悪人に対しても、死刑以外の刑罰のうちに、その人間を改善させることを、つまり矯正を主たる目的とした刑はない(懲役刑とかあるけれど、作業させることを強いて自由を奪うだけで、刑期が終わればその人間が矯正されているかには関わらず出所なのだ)。ここでいう矯正っていうのは、その人間の「極悪人」という人格の存在を前提に、その人格を変えてでも「非極悪人」とすることとする。「極悪人」の定義も曖昧なわけだが、まぁさっきの例でいうと、自分勝手にしかも平気で人殺しのような重大犯罪を行うことができる人と考える。


で、だいぶ前にはやったマインドコントロールとか、そういう医学的な洗脳方法って、まぁたぶんあるわけで、そういったいわば洗脳によって、その極悪人たる人格を矯正できるとして、これを人格矯正とする。


そうすると、死刑という人格そのものを奪いさるようなことを可能にしているわけで、もちろんこういう人格矯正も許されそうじゃない?
でも、だいたいこういう人格矯正は人権侵害という理由で認められていない。


なんか矛盾じゃない?



矛盾じゃないとすると、人権侵害の程度が死刑よりも人格矯正の方が大きいとみるんだろう。
 人格矯正>死刑
みたいな。そうすると、人格矯正ほど人権侵害していない死刑ならOKみたいな。
でも、普通に考えると、生命を奪う方が大きいと思うんだよなぁ〜。
いや、そもそも人によってその侵害の受け止め方は変わるもんだから、例えば、それ一回で終了の死刑よりも、人生を全うし続けるため人格を変更された状態を強制される方がひどい!って思う人もいるかもしれない。当然、その逆もしかり。
とすると、結局、極悪人=受刑者の受け止め方次第で、死刑よりも人格矯正の方が人権侵害の程度が大きいか小さいかといったことが変わってくるんじゃね?



そうすると、かならずしも死刑より人格矯正の方が人権侵害が大きいなんて言えないんじゃないかな?


とか思うと、人格矯正という手段も、そういった「言っても解らない極悪人」にとっては刑罰の手段として採用しうると思うんだ。
まぁ、保安処分で色々もめてるくらいなんで、治療とかいう名目ではなくこんな正面から人格矯正を目的とするなんてムリな話なんだろうけれど。
でも、ここまで直接的でないにしろ、こういった矯正教育って、必要だと思うんだな〜


そういったことを思うのも、そもそもみんな色んな形で、人格矯正されてたと思うから。
それは、言い方が「人格矯正」なのか「教育」なのか「人格形成」なのか、そういう表現の違いに過ぎないんじゃね?っていうこと。
小さい子供に悪いことはしてはいけないと叱る。いいことすれば褒める。そういった形で人は人格を形成していくわけで、例えば、親なら自分の子供が極悪人にならないように、またなりそうならば人格を矯正してでも、なんとか正しい道に持って行こうとするもんじゃないかなと思うわけですわ。
そりゃ薬や注射なんかして洗脳するわけじゃないけど、これって立派な人格矯正だし、それはいいことだと思う。
むしろ、人様に迷惑をかけてる子供を、「これも個性」とかわけわからんこと言って放置する親ほど無責任なもんはないと思うわけです。何が個性やと。そんな個性はうんこやと。そんなもんいらんと。
そういう感じのにーやんでした。


こういう感覚って普通かなぁ〜、って思うけど、「なんて人権感覚のない人間なんだ!!!!」とか思う人もいるんでしょうね。世の中、みんな人それぞれだから。


とまぁ、言いたいことを言うという信念でこれからもブログ書こうと思ったんだけれども、かなりオブラートをつつんだ感じになりましたな。誰に気を遣ってんだ俺は。



あ、それからもう1つあったんだ。
悲観する前に、打開するための努力してんのか?
ってこと。


いや、だっつぁんに言われたとおり、他人に厳しく自分にすっごいあまちゃんで、しかも自分は全く強い人間でもないので、今更だけれど偉そうなことを言う資格はない。
資格はないけど、思ったことをぶっちゃけるというのがこのブログの趣旨だから、あえて主張したい。



あるブログで、最も傷つくことは人から愛されたことがないことだーッッ!!!!
とかいう人がいて、あぁそういうもんかもなぁ、とも思ったけれども、
そもそも、おまえは愛されるために必死に努力したのかと。
というのも、よく愚痴というか、話の流れから、
「本当はそんなことないのに、自分は〜だとよく言われてあまりスキになった人とうまいこといかない」
とか
ものごっついひどい格好で、「もてたいけど全然あかんわ」
とか、そういう悲観的なことを言う人って、ちょくちょくいるわけ。
でも、そういう人に限って、だいたい改善の余地がわかっているのに、改善しようとすらしない、ってパターンが多い。
となると、突っ込まざるを得ないではないか。
「えッ?その前に自分でできることあんじゃね?」って。
まぁ、本人も本気で悲観してるわけでもなくて、「まぁ仕方ないかぁ」くらいなら、全然OK。むしろ、そういうことはよくあるし。今のにーやんも色んな事を「まぁ仕方ないかぁ」という感じです。今日も朝昼兼用のカップラーメンで仕方ないかぁとか。ちょっと違うか。まぁ人の優先順位って色々ですわ。


でもタチの悪いのは、本気で悲観しているけれど、何もしてない人。
要するに、彼氏or彼女欲しいとか言いながら、全然できない原因が自分に(も)あって、それなのに自分を変える努力をせず、挙句の果てには、「これが自分だから」といって自分の怠慢を正当化する人。


え?そんな奴いるの?って思う人もいるかもしれないが、少なくともにーやんの周りにはいたりします。
しかも、そういう人は数年同じような愚痴を言い続けています。


別に不細工というわけでもなく、もったいないな、みたいな。
にーやん的には思うので、ちょっぴり厳しいかもしれないけれど、友達にはこういうことをちゃんと言うようにしてます。だって、それがその人の為になると思うから。
逆に、そういう言うべきなのに、一見キツイ内容で言いにくいから言わない、っていうのは、「おいおい、なんだよそれ。それでも友達かー!?」とか、思ってしまいます。


そういえば、友人に彼女ができたんやけど、それでも彼女としっくりこないようで、そんな中で「スキな人なら我慢できると思うんやけど、もうあかんかも…」と彼は言う。
まぁ、スキな人だから我慢できることもあると思う。でもさぁ、そもそも我慢の内容だと思う。それが一方にとって耐え難いものならば、それは愛の力でもなんでもなくて、ただの我慢なわけでして、もちろんそういう我慢が必要なときもあるけれど、根本的な原因をちゃんと話し合ってお互い納得できるように持って行かないと、いつか絶対に終焉を迎えると思う。我慢の内容になるけど。




今日はいっぱい支離滅裂なことを書いてやったな。感想文ですわ。
もうおなかいっぱいです。