レポート提出における正しいコピペのやり方。の巻

昨日、大学の課題のレポートがネットのコピペで出される問題について、ニュースで特集してた。


確かに、コピペで自分の見解としてレポートを出すのは課題の意味がない。
しかし、コピペのすべてがダメっていうのは論理的ではない。
ここで問題なのは、他人の意見をそのまま自分の意見のようにすることが問題なのだろう。そして、それは課題が自分の考えたことをレポートにして提出させる趣旨ということによるとすれば、それ以外についてはコピペを否定する理由はない。


例えば、そのニュースでやってたのは、「裁判員制度について」のような課題が出された場合が挙げられていた。
そもそも、裁判員制度の何についてレポートを求めたのかはよくわからんかったけど、仮に、その制度の是非についての考えを問うようなものだとすると、そこで述べられる前提として、その「裁判員制度」というものについて正しい理解をしていることも必要だろう。
そして、その「裁判員制度」という法制度の解説については、例えばウィキペディアの記事をコピペしても(内容が正確である限り)いいと思う。そもそも、そこは個々人で違いようのない法制度の理解であるから。むしろ、人によって「裁判員制度」の制度自体に違った内容が認められれば、それは制度じゃない。


というのも、レポートみたいなものじゃなく、学者の論文なんかでも、そこで論じる前提の制度理解に一致した理解がなければ、一致した土俵で議論のしようがない。制度の評価ではなく、その制度自体については、むしろ誰もがレポート内容が(表現は別として)一致しなければおかしい。


そこで、表現があれと同じとか言って、コピペしたことを非難する人もいるかもしれない。しかし、その非難は、「おまえ楽してるからダメ」って非難に等しく、道徳論みたいなもんで、そのレポートの質とは無関係である。

コピペ
 ↓
楽をしてる
 ↓
採点は低い

みたいな論理なら、レポート出題の趣旨に反した道徳の点数に帰する。
にもかかわらず、日本ってこういう「楽した奴はダメ」みたいな論理がスッと通りやすい。だから、「コピペ=ダメ」みたいな図式が成り立ちやすい。
しかし、このネット時代に、そういう安易な理解でコピペを禁止する教育は、むしろ教育上は弊害が多い。情報を利用することに対する規制につながりやすいから。
無意識的に、「ここは本で調べてまとめないとな。」みたいなアホなことになりかねない。情報媒体が変わっただけだろと。そんな無意味な苦労させる傾向が、「美徳」みたいなことを展開する教育者もいるかもしれない。デジタル・デバイドの結果、ネットの利用能力を欠く人とか、そもそもネットとか電子機器を嫌う人はそういう傾向に逃げそうな予感。
まぁ、デジタル・デバイドの問題も、これからはなくなっていくだろうし、そんなことを言う自由がなくなるくらいに、ネット中心の社会に変わりつつあるから、その意識は変わっていくと思うけど。


話を戻して、課題のレポートで自分の考えを示すことを要求しているとすれば、確かに、その制度に対する評価や、その評価から導くべき結論なんかの自説の展開部分は、自分で考える必要があるともいえる。
しかし、すべてオリジナルの見解みたいなものを想定するのならば、その想定するところがそもそも誤っている。
学者でもそうだけれど、すべてオリジナルなんてほとんどない。既存の考えがすでに存在しているから。
例えば、「裁判員制度の是非」みたいなテーマでも、例えば、賛成する人の論拠や、反対する人の論拠など、いろいろすでに出されている。
で、結局、そういう各立場の論拠を引っ張ってきて(コピペ)、こっちの論拠が説得的とか、こっちの論拠が不適切とか、そういう評価(だけ)を自分でするだけな論文の方が多い。


だから、こういうレポート課題って、自分の考えを論じる部分はほんの少し、つまり各立場によるべき論拠の評価だけ自分で考えれば、それなりのものができてしまう。


実際、法学部の自分が文芸学部のレポートを昔3000円でやったことがあったけど、そんな感じで作ったものでも評価は「優」だったし。法学部の自分にとって、そのテーマはわけわからんやつで、もう忘れたけど。

■レポート提出正しいコピペのやり方

こんな感じで、ほとんどコピペでも、自分の評価をほんの少しつけて作り上げるだけで、全然別物の「自分の」レポートが完成する。
まぁ、コピペがばれることを気にする場合でも、そのコピペした文章構造を把握して、ちょっといじるだけで表現は変わる。ただ、表現を変えるだけで、上述の制度的な事実については、その内容を変えてはいけない。
自分的には、むしろウィキからコピペしましたと自白してもいいとすら思ってる(ただ、ウィキの内容が間違っていたら不勉強がバレるというリスクはある)。
後は、

  1. 論じる上での見解(立場)を把握して、その見解をコピペ&要約する。
  2. そこの論拠に対する評価(説得的か、不適切か)と結論だけ、自分で考える。

だから、自分の頭で考える部分は2番目だけ。
まぁ、その考える部分が難しいかもしれないけれど、そのネタ(情報)は腐るほどネットに転がってるから、苦労することはない。
多分、コピペで問題とされるのは、その見解がコピペなのに、あたかも自分の見解みたいなことにした結果、それがバレるからだろう。
正しいコピペは、むしろそこは正直に「引用」という手法で、これはコピペと自白した上で、それに対する評価を自分で考えれば、簡単にオリジナルになる。
実際、学者の論文の多くがこのパターンだったりする。引用文献ばっかりみたいな。だから、こういう手法はむしろ常道といえる。


注意を要するのは、引用した内容をあたかも自分の意見であるかのように書いてしまうことだ。先生が最も嫌うのはこれだ。
すなわち、「自分の頭で考えないで書いた」という評価がされないようにすることが肝だ!
しかし、それは難しいことではない。むしろ、コピペして既存の考え方、制度内容等を自分の中で消化する。その上で、それに対する自分なりの評価を加えてまとめる。
それだけで、それなりのものが簡単にできるはず。
最低限、「こういう見解に対して自分の頭で考えたんだ!」っていうことを装う必要がある。だから、意見を求める型のレポートでは、最低限自分とは反対の意見を引用(コピペ)して、それに対する評価を書く必要がある。もちろん、いろいろな考えを引用(コピペ)して、それらに評価を加えて自分の意見を説得的に論じれば、さらにいい評価になるはず。
このように、すべてコピペで大丈夫というわけではなく、最低限自分で考えた意見というものは自分で用意しなければならない。
ただ、それもゼロからではないわけで、コピペによって色々ヒントはあるわけだから、そんなに大変じゃない(そもそも、ゼロからすべて考えること自体不可能なものだ)。


なんかニュースでは、ネット上の情報とレポート内容の一致率からコピペを発見するみたいなプログラムを使って、その判別を試みてたけど、あんまり意味ないと思った。コピペでも、その内容が、良いものなら良い、悪いものなら悪い、でいいじゃないか。


そんなことをおかんと話してたら、今自分が受けようとしている司法試験が似たような論理で、旧司法試験から今の新司法試験に制度が変わったんだったと思い出して、げんなりした。
法律論なんだから、似たような表現になるのは当たり前で、旧司法試験が予備校の劣化した論証のコピペだとか批判するのはおかしいだろと。そんな中でも、理解が不十分な人間はコピペしてもボロが出るもんだし。問題は間違った理解のまま、暗記したこと「だけ」で合格してしまうということだ。
今の試験で、そのボロが把握しやすいから、成功といえば成功なんだろう。


でも、「論パの暗記=ダメ」みたいなことを新興宗教のように言う先生もいるからなぁ。まぁ、暗記苦手で、論パ暗記なんかできない自分にとってはありがたいけれど。


司法試験でも、「自分の考えを述べよ!」みたいな形式の問題だけれど、そこで私見として述べられるところは、通説・判例の考えがほとんど(とりわけ判例実務の考えが中心)で、私見は「あてはめ」部分でのその考えの適用の仕方ってところだけかもしれないが、それも既存の考えを念頭において、そこから類推しているだけだから、私見ともいえないかもしれない。


すげー空虚な感じがするけど、まぁそういう試験だからな。


話変わるけれど、論文答練やってて時間切れになる原因って、この日記で思ったことを何のためらいもなく縷々述べてばかりだからなんじゃないか?
なんか駄文作成能力を知らない間にマスターしたー!みたいな。



し、試験終わるまでは、簡潔な文章を心がけよう。試験終わるまでは。
2回言ってみた。
またやっちまったー!!!!

■蛇足――ウィキの引用に関する覚書

コメントに、

nanashi 2011/06/23 17:04
大学院でて、wikiの引用okってすごいなあ。
そんな程度なんですね。
研究者として残念でコメントしてしまいました。

というのがなされている。
これは、

ウィキペディアの記事をコピペしても(内容が正確である限り)いいと思う。そもそも、そこは個々人で違いようのない法制度の理解であるから。

という部分に対するものだと思われる。
このコメントからすると、

ウィキ=引用対象外

のような前提をことを意味しているんだろう。ただ、その明確な理由は書かれていないのでその真意は明らかじゃない。
しかし、内容が正確であることを前提に個々の制度の説明を論文で書くことに、ウィキか書面媒体かで何か違うのだろうか?
例えば、「執行猶予」という項目をウィキで調べて、その意義について

執行猶予(しっこうゆうよ)とは、犯罪を犯して判決で刑を言い渡された者が、その執行を条件付きで受けなくなる制度である。

とウィキで書かれている内容を引用して何かレベルが変わるのだろうか?
答えは「変わらない」だ。
こういう争いのない部分を引用したところで、分厚いコンメンタールと何ら違いはないし、その分野の最高権威の研究者の文献から引用したところで、執行猶予の意義は変わらない。
こういった争いのないタームの説明は引用元で内容のレベルが変わるような内容じゃない。この点について引用元がウィキかどうかで論文の質は上下しない。そもそも、引用元をウィキかどうか特定できるような内容じゃない。


「ウィキの引用だから」ということでレベルが低いというレッテルを貼るとすれば、それは早計だろう。
ただ、このコメントの趣旨を善解すると、研究者等が必ずしも作成するわけじゃないウィキの内容は常に正しいわけじゃないということから、「そんな程度」と指摘しているんだろう。
コメントの趣旨がこの指摘だとすれば正しい。だからちゃんと本文の方で「内容が正確である限り」と断っている。
そして、結局その内容の正確性のチェックをするには文献に当たる必要も出てくるだろう。しかし、ほとんどの場合、ネットでチェックすることは可能だ。


ウィキの有用性を考えるとこれを利用する手はないわけだが、従来の書面媒体が主体で研究してきた古い頭の人はこういう引用を理由なく毛嫌いする傾向にあるが、そうだとすればこんな論理的じゃないアホなことをいう人は研究者としては失格だろう(コメント主がそうかどうかは知らない)。
単に「ネット情報だから信用性は低い」という考えは全く論理的思考とはいえない上、ネットに対する無知を露呈している。
ネット上でも最先端の研究者の論文情報もあるし、逆に書面媒体における情報でも誤りはあるからである(最近の論文は、科学技術の分野だけでなく、法律の分野でもネット情報が引用されることが増えてきている)。


論文のレベルが、ウィキの引用かどうかで左右されないことはよく考えればわかる話だが、それはウィキでいい論文が書けるということを意味するものでもない。
ここでウィキの引用でもいいと言った趣旨は、争いのない専門用語や制度説明をいちいち自分で文献で調べて、その内容をパソコンに打ち込んだところで、結局同じことはウィキに書かれてるんだから、コピペすれば時間も労力も有効に使えるってだけだ。
それ以上でもそれ以下でもない。


自分も大学院で専門分野の研究論文を書いたことがある。卒業時に表彰もされた。
確かに、そこではウィキを引用したりしなかった。けれど、ウィキに書いてあるようなことも論文には書いてある。これは当然のことで、あるテーマについて論文を書くときに、そのテーマについての正確な理解が論文の土台となるからだ。
そのため、基本事項についてはまずはじめに書かれる。「〜〜とは、」という書き出しから、論文のテーマに沿う土台を構築するのだ。
その意義は必ずしも万人に共通なものとは限らない。例えば、民法の共同不法行為の趣旨は被害者保護にあるとするのが最近の学説の趨勢だが、その具体的内容が何かは争いがある。
しかし、制度理解について共通なものについてはウィキで足りる。
もちろん、その制度理解に書くことができないとされる文献があったりするから、そこから引用することで論文の内容に対する信用性は異なってくることは多々ある。このような配慮を要する場合もあるが、それはテーマや論文で要求されるレベルで異なる。


個人的には、学部生レベルで要求されるレポート程度ではそのような配慮はしなくても、十分に優秀な評価を短時間に作成できると思う。
今回の記事はそういった内容だ。


ネットに対する理解がいまだ不十分であるがゆえに、「コピペ」が「悪の蛮行」と評価というのだとすればそれは間違っている。
しかし、論文の内容とは別にそう考える人も少なくない。
そこで、そのような間違った評価に対する回避手段を今回の記事で呈示した。


そもそも、ウィキだけでレポートが書けることなんてほとんどないだろう。
しかし、ウィキを利用して作業を短縮することはできる。
ほとんどの学部生に対するレポートは自分の考えを提示することを求められるものだから、評価の対象として重要な部分はこの部分だ。
その前提として、テーマの理解をはじめに呈示することは不可欠になる。これが論文の土台となる部分だ。ここが間違ってると自分の考えも間違えが前提となる。それでは何の説得力を持たない。ウィキのメリットとデメリットを考えて、この土台作成に利用すればいい。もちろんウィキに限らない。


しかし、コメント主が本当に研究者だとすれば、やはりウィキ引用に不快感を抱く人間がいる可能性はあるので、ウィキ引用とわからないようにすることは必要かも知れない。
どうやってわからないようにするんだ?って疑問を持つ人もいるかもしれないが、内容が正しい限り、引用元でウィキとばらさない限り、既保的なタームの説明に関してはばれることはない。なぜなら、その部分は争いのない事項であり、ウィキか研究者の文献かによって内容が左右されない性質のものだからである。


ここで注意すべきことは、ウィキの編集方針に反して独自研究をもとにして執筆されている部分がありうるということだ。
これは上で争いのない基本的な意義、説明とは全く異なる性質のものだ。これを引用してしまうことは客観的な内容じゃなくなってしまい、論文の土台を形成できなくなるというリスクが生じる。
もっとも、これは独自研究が誤っているというわけじゃない。しかし、どこの誰かがわからない人間の独自研究の結果が万人に共通の理解とされるべきものとして記載されているとすると、それは論理を上積みすることができない内容になる可能性がある。独自研究の場合、共通の理解がないからだ。


このようなリスクがウィキにあるため、上ではコピペの対象は「争いのない内容」で「万人に共通するもの」と指摘した。
要するに、コピペの対象は記事の内容によって考えてやらなければ、ボロが出るということだ。
仮に、独自研究の内容を前提に論を進めると、そこでは書き手と読み手の間に内容の合意は形成されない結果、そこで書かれた内容は「誤り」という評価すらなされかねない。
このようなリスクを回避するには、そこで書かれている内容が主観に過ぎないか、参考リンクの有無、リンク先の内容の信用性等も検証する必要がある。が、そんなに大変なことでもない。とりあえず、主観的事項でリンクすら指摘されていないものは引用を避ければいい。
ちなみに、明らかな独自研究の場合もある。それが通常の論文だ。
それはその論者の見解として位置づけて引用する。
要するに、テーマに対する理解。それに対する見解。この2つを明確に分けて考える。
その上で、どう利用するかは本文で書いた。


自分はウィキの引用がすべて正しいというつもりは毛頭ない。
しかし、その利用の方法によっては有用性があるということは事実だ。それ以上でもそれ以下でもない。


そもそも、研究者のレベルの高い論文の一部を除くと、研究者レベルでも文献の引用と整理に終始するものも少なくない。
ネットだからとかそういうレベルはもう卒業してもいい頃だ。