Winny事件に関する刑法学者と知財学者の憂鬱

現時点では、まだ確定はしていないものの、Winny事件は、第一審では有罪。控訴審では無罪と、判断が真っ二つに分かれている。

事案は、Winnyの開発者が、Winnyを不特定多数の者に提供した行為が、著作権侵害行為を幇助する行為に当たるとして、起訴されたというものだ。つまり、開発者自身が著作権侵害行為をしたことを理由に起訴されたのではなく、誰かがやっている著作権侵害行為をWinnyというソフトを提供することで、その著作権侵害行為を手助けした(=幇助)という罪で起訴されたわけである。
ここで、弁護人は

  1. 著作権法120条のを除き技術提供による間接的関与を罰しない本法は刑法上の幇助犯規定の適用を予定していない
  2. 刑法上の幇助は特定の相手方に対することを要する
  3. Winnyの如き価値中立的な技術の提供一般を犯罪としかねない幇助犯成立範囲の拡大は不当である

などと主張した。
これに対して、第一審は、

 インターネット上においてWinny等のファイル共有ソフトを利用してやりとりがなされるファイルのうちかなりの部分が著作権の対象となるもので、Winnyを含むファイル共有ソフト著作権を侵害する態様で広く利用されており、Winnyが社会においても著作権侵害をしても安全なソフトとして取りざたされ、効率もよく便利な機能が備わっていたこともあって広く利用されていたという現実の利用状況の下、被告人は、そのようなファイル共有ソフト、とりわけWinnyの現実の利用状況等を認識し、新しいビジネスモデルが生まれることも期待して、Winnyが上記のような態様で利用されることを認容しながら、Winny2.0β6.47及びWinny2.0β6.6を自己の開設したホームページ上に公開し、不特定多数の者が入手できるようにしたことが認められ、これによってWinny2.0β6.47を用いてX(正犯)が、Winny2.0β6.6を用いてY(正犯)が、それぞれWinnyが匿名性に優れたファイル共有ソフトであると認識したことを一つの契機としつつ、公衆送信権侵害の各実行行為に及んだことが認められるのであるから、被告人がそれらのソフトを公開して不特定多数の者が入手できるように提供した行為は、幇助犯を構成すると評価することができる。

として、罰金150万円の有罪判決にした。
ネットなんかで色々みてみると、とりわけソフト開発者等からは、この第一審の有罪という結論に(法律論を抜きにして)批判的なものが多いようだ*1


これに対して、第2審の控訴審では、まず、原判決の設定する判断基準では現実の利用状況の程度やその認識のあり方、技術提供時の主観的意図のネット上での表明の要否やその時期等が不明確であるとしてこれを排斥し、Winnyとその提供の価値中立性を認めて、

 一般に、中立行為による幇助犯の成立につき、正犯の行為について、客観的に、正犯が犯罪行為に従事しようとしていることが示され、助力提供者もそれを知っている場合に、助力提供の行為は刑法に規定される幇助行為であると評価することができるが、これとは逆に、助力提供者が、正犯がいかにその助力行為を運用するのかを知らない場合、又はその助力行為が犯罪に利用される可能性があると認識しているだけの場合には、その助力行為は、なお刑法に規定する幇助犯であると評価することはできない」としたうえ、不特定多数者への提供たるソフトのネット公開事案では提供者はその取得者やこれが違法行為をなす意図かを把握しえず、また、幇助犯の公訴時効の進行は正犯行為の終了時からのためソフトを違法に用いる者が生じる限り提供者は無限に刑責を問われうるとし、「価値中立のソフトをインターネット上で提供することが、正犯の実行行為を容易ならしめたといえるためには、ソフトの提供者が不特定多数の者のうちには違法行為をする者が出る可能性・蓋然性があると認識し、認容しているだけでは足りず、それ以上に、ソフトを違法行為の用途のみに又はこれを主要な用途として使用させるようにインターネット上で勧めてソフトを提供する場合に幇助犯が成立する

との基準を設定し、Xは Winny著作権侵害のみまたはこれを主要用途とさすべくネット上で勧めて提供したとは認められないとして、無罪とした。



法律学者でも色々見解が分かれているが、刑法学者は概ね有罪(第一審の結論)を支持しており、知財法学者の多くは無罪(控訴審の結論)を支持しているようだ。


まず、控訴審の無罪が出て、刑法学者の中で公式に初めに見解を表明したのは、多分、松宮孝明教授だと思うけれど、法セミ663号123頁で、無罪とした控訴審判決に対して、こう述べている。

 一審は、……Winnyを用いて著作権侵害をする者が出る可能性・蓋然性があること前提に、それを認識し認容していた被告人には辮助が成立すると解した。これに対して、本判決(控訴審判決)は、それだけでは足りず、「著作権侵害の用途のみに又はこれを主要な用途として使用させるようにインターネット上で勧めて本件Winnyを提供」したことが必要として、積極的な犯罪助長的態度を要求している。
 しかし、控訴審の専門家証言でも、Winnyのネット上にあるファイルのうち著作権者の許諾が得られていないと推測されるものは40%程度はあるとされている。そのようなソフトをネット上で公開することが、なお中立的と言えるか否かは、議論のあるところであろう。付言すれば、優れた技術だから許されるという論理は使わないほうがよい。それは、科学者の社会的責任を忘れたものだからである。

また、同じく刑法学者である永井善之准教授は、客観的帰属論を前提に、正犯に対する関与行為による非日常的な(所与の前提とはいえない、許されない)法益侵害の危険を創出するかどうかを原則的な判断基準として、その行為が非日常的な危険を創出するようなものであり、その認識があれば、幇助の故意を認める。そして、本件の事件については、

 Winnyにより共有されるコンテンツ中著作権侵害によると推定されるものは、40ないし47%程度、すなわち約半数と認定されている。また、Winny自体は匿名性のゆえに摘発困難な違法なファイル共有が可能なソフトである。これらからすれば、その提供行為は、価値中立的であり日常的な危険の創出に過ぎないと評されうるかには疑問がある。
 しかし控訴審は前述のように、技術的価値あるソフトのネット頒布という本件の事案特性を理由として幇助行為の個別的な限定基準を採っている。この点、それが行為の価値中立性が問題となりうることを理由に幇助犯の成否に特別の判断基準を設定したものであるとすれば、本来その中立性は幇助犯の不成立により確定されるものである点で、犯罪成立判断の方法論的に疑問がある。この点を措いても、このような判断基準を採る根拠として本判決の挙げる、不特定多数者への提供という点については、それはネット上でのソフト公開を選択したX自身が引き受けた事情であって、それを罪責限定の方向に考慮すべきではないように思われる。
 さらには、違法用途を唯一または主たる用途に勧めるとの限定自体も、既に犯意をもつ者への寄与という幇助行為の要件として過剰であろう。本件の具体的状況の下で当該行為が正犯の犯罪を促進する可能性、すなわち本件では Winnyの技術特性やそれゆえに既に広く著作権侵害行為に利用されていたことなどを前提にそのネット公開行為の危険性が判断されれば足りよう。このように考えられるとすると、本件行為は非日常的な、許されない危険を創出するものではないとの評価は困難であるように思われる。
http://www.tkclex.ne.jp/commentary/pdf/z18817009-00-070510522_tkc.pdf

要するに、Winny自体が著作権侵害という犯罪に利用されるもので、そんなソフトを提供する行為は、危険を創出するし、その認識もあっただろ、だから有罪だろ。こんな感じです。



このような刑法学者の態度とは真っ正面から異なる態度を表明しているのは、知財法学者の田村善之教授だ。

 京都地裁(有罪とした第一審)が強調している主観的要件のハードルは、一定の割合で侵害者が出ていることを認識している以上のプラスアルファのものがほとんどないのです。Winnyのようにインターネットを介して莫大な数の人間に提供したソフトウェアの場合は、必ず何割かの確率で侵害者が発生します。こうした複製や送信に関わる技術を開発する方は、事実としては、それが著作権侵害に使われることがあるぐらいは当然、認識しているわけです。それを認容したかどうかというときに、この程度のメールのやりとりとか、Winnyの将来展望などについて書いただけで、しかもはっきり著作権侵害をやれやれと書いたわけではなくて、単に著作権侵害が拡がるだろうという認識を表明しただけで認容とされてしまうのでは、これは制約原理として機能しません。このような要件論では、著作権侵害行為にも供される可能性のあるソフトウェアをそれと知って頒布した場合には、ほとんどが主観的要件を満たすということになりかねないからです。
 もしこれが伝統的な刑法学の帰結だというのであれば、どうも、こういう一斉大量頒布型の中性品のことを伝統的な刑法学は念頭に置いていないようにしか思えないのです。このような抽象的な危険を招来するのみでは、不可罰とする法理が必要でしょう。主観的な要件を絞るのは困難ですから、むしろ許された危険の法理のように、より客観的なところで犯罪成立の可能性を遮断し得るような法理が展開されることが望まれます。
 幸い、この事件は控訴審の大阪高判平成21年10月8日[Winny2審]で逆転判決があり、被告人を無罪とする判断が示されました。Winnyが多様な適法用途もある価値中立的なソフトであることを強調し、原判決がそれを意識しつつ、「提供する際の主観的態様如何」により違法性の有無を判別するという方策を採用したことに対して、「技術それ自体が価値中立のものであるWinnyの提供はインターネット上の行為として行われるのであるから、いかなる主観的意図の下に開発されたとしても、主観的意図がインターネット上において明らかにされることが、必要か否かが」判然とせず、「原判決の基準は相当でない」と断じています。そのうえで、「価値中立のソフトをインターネット上で提供することが、正犯の実行行為を容易ならしめたといえるためには、ソフトの提供者が不特定多数の者のうちには違法行為をする者が出る可能性・蓋然性があると認識し、認容しているだけでは足りず、それ以上に、ソフトの違法行為の用途のみに、またはこれを主要な用途として使用させるようにインターネット上で勧めてソフトを提供する場合に」幇助犯が成立するという規範を定立したうえで、本件ではこれが満たされていないとして無罪を言い渡したのです。
 控訴審判決は、違法行為に用いるように勧奨して提供するものでない限りは幇助犯が成立しないとするものです。原判決の法律構成が、違法行為が拡散する現況を認容していたという程度で有罪とすることを認めるものであり、結果的に適法行為にも用いられる価値中立的な技術の開発や提供を萎縮させるものであったのに対して、そのような萎縮効果の発生に歯止めをかけるものとして評価することができます。
http://www.juris.hokudai.ac.jp/gcoe/journal/IP_vol26/26_2.pdf

Winny自体が中性品といえるものか自体にも議論があるが、その機能自体は、単なるP2Pソフトの一種に過ぎないわけで、刑法学者は感覚的に、「こんな違法なソフト!」みたいな先入観が先行しすぎている感じがする。現象を捉えてそのような先入観が生じているものと思われるけれど、果たして、そのような感覚を先行させて刑事責任を開発者に帰責していいのだろうか?客観的帰属の理論はそんな先入観を理論付けるものじゃない。
このような誤った認識・評価のまま、「理論的」な形をつけて有罪を支持する刑法学者の見解にはいまいち説得力が欠ける面がある。
他方、さすが知財法学者だけあって田村教授のWinnyに対する認識は適確であるものの、開発者の萎縮効果から逆算して幇助罪を否定するというのは、「あるべき論」に過ぎず、それは刑法理論ではない。


ただ、Winnyを初め、こういうソフトに関する正しい認識があれば、高裁のような判断に至るのは当然のような気がする。ここでの認識とは、Winny自体の理解とその使用状況とをごっちゃにして、ソフトの提供行為を論ずることができないということ。刑法学者はここを区別せず、違法な幇助行為の認識の有無の判断に先行して、「違法ソフト」といったレッテルを貼り、そこから幇助の故意を基礎付けている感がある。これじゃ、議論が逆転しているんじゃないだろうか?
もちろん、Winnyの使用状況を無視しろと言っているわけではない。しかし、Winnyを使用して犯罪行為を行う状況がたとえ1%だとしても、その犯罪行為を幇助するためにWinnyを提供したならば、それはやはり幇助犯の成立を認めるべきで、逆に99%の犯罪行為だったとしても、残りの適法行為を行う1%の人のために提供したならば、そこに幇助の故意を認めてはならず、幇助犯は否定しなければならない。
にもかかわらず、犯罪行為のための使用状況が50%である認識があったことから、幇助の故意を認めることは論理の飛躍である。残りの適法行為の利用のために提供したかもしれないのであり、それを幇助犯として可罰的とするのは、過失によって幇助せしめたことを可罰的に扱うことと実質的には同じことであり、これは刑法理論に反することは自明である。
しかし、刑法学者はこのことを理解しつつ、幇助犯を成立せしめる理論を考えている。が、これは田村教授の言うように現実にはそぐわない結果を招来する。それだけではなく、現実のパソコンやネットにおけるソフトの利用状況から考えてあまりにも無理のある理論と言わざるを得ない。何度も言うが、それは結論の先取り的な考え(Winnyに対する評価)に起因している。




つまり、包丁を売る行為は価値中立的であり日常的な危険の創出に過ぎないが、Winnyを提供する行為は非日常的な危険を創出するものであるというのは、結論の先取りだということだ。
先にWinnyが非日常的であるという前提としているだけである。この「日常的」か「非日常的」かは、それ自体が比喩に過ぎず、基準としては機能していないと言わざるを得ない。
しかも、正犯の犯罪を促進する可能性の認識さえあれば、幇助の故意として足りるとすると、例えば、販売された包丁のうち1000本に1本が傷害に使われているとすれば、年間1万本以上販売する包丁販売者には、そのうち10本が傷害に使われるという正犯の犯罪を促進する可能性の認識を認めざるを得ない。が、そんなアホなことを言う人はいないだろう。
スタンガンは自己を守るための物として売られているが、逆にこれを利用した犯罪行為も少なくなく、このような実情について概括的な認識があるに過ぎない場合までも、犯罪行為を促進する可能性のある行為であるという認識は肯定されうる。が、このような販売行為に幇助犯の成立を肯定してよいのか?
似たような事例で、例えば、Googleストリートビューというサービスがあるが、現にこれがストーカー犯罪に利用されたりもしている。では、Googleはストーカーの幇助犯になるのか?確かに、民事上の損害賠償責任は問い得るのかもしれないが、このサービスの提供が「刑事上の犯罪行為」といえるのか?これが犯罪行為なら、カーナビ、ひいてはただの地図すらもストーカーの幇助になり得る。
そうすると、このようなサービスを悪用する者が存在する以上、そのサービス提供行為が常に幇助犯とされるおそれが出てくる。
こうなってくると、たまたまCDを貸した友人が勝手に自分のHPに音楽データをアップロードして公衆送信権侵害で著作権法違反をした場合も、その認識可能性があれば、幇助犯成立のおそれも出てきてしまう。


こうなってくると、結果的に犯罪行為を促進する行為があったとしても、その認識可能性のみで幇助犯として処罰するのは、結果責任を問うに等しくなってくる。
このように考えると、控訴審が幇助の故意でその処罰範囲を限定した点は、明らかに犯罪行為を手助けしたといえる者のみを幇助犯として処罰するものであり、やはりこのような判断は、刑法的にも妥当なものと解される。


少なくとも、著作権侵害を防ぐことと、幇助犯として刑事責任を問うことができるかということをごっちゃにしてはならない。
著作権侵害を誘発するから政策的に幇助犯を拡大するなんてことになれば、刑法の自由保障機能は画餅に帰す。
この点からすると、高裁の無罪判決を出した考えは自由保障機能という刑法の基本原則にそった考え方であり指示すべきだろう。


刑法学者は無罪判決を出した控訴審判決に憂い、知財学者は有罪判決を出した第一審に憂い、このような中ではたして最高裁はどちらの考えを採用するのか?それとも、第三の道に進むのだろうか?
最高裁のまねきTVやロクラクの判決等をみる限り、こういう著作権違反関係はかなり権利者よりというか、責任を肯定する方向に向かってる感じがする。


金子さん。有罪になりそうな予感がプンプンしてます。ヤバい。