ロースクール生の憂鬱――その③ 試験上の「正解」と学問上の「正解」

■試験上の「正解」と学問上の「正解」の違い

法律学においては、しばしば「正解はない」と言われることがある。
確かに、法律学は社会科学の1つであって、解釈論1つとっても色々と学説が唱えられたりする。今なお、民法における錯誤論、瑕疵担保責任、刑法における共犯の処罰根拠1つとってもすげー色々な学説がある。
そして、学者は自分の研究テーマについて人生を賭して自己の主張する学説の正当性を主張するという、壮大なロマンのある仕事をなさっておられる。
そんな、先生たちの主張を一方は正解で、他方が不正解だなんて、簡単にいうことはできないのは、そうなのだろう。
そんな先生からすれば、「正解を求める受験生は間違っている」ということになるのだろう。それゆえ、正解を前提にする受験対策は悪というレッテルを貼るのだろう。


しかし、これが司法試験という職業資格の論文試験問題となると話は変わってくる。
なぜなら、「正解」のない試験は試験(少なくとも、職業資格試験)として成り立たないからだ。


では、何が「正解」なのか?
確かに、こういう問になると、答えるのは難しい。


結局、合格者の答案が資格試験においては「正解」ということはいえる。
そして、過去問を検討すればわかることだけれども、その「正解」は、東大の先生を中心に学会で議論しているような最先端の学説じゃない。
判例・通説といった法曹なら誰もが知っているようなこと前提に、そこから論理的に考え、説得的に示されたものだ。
あえて言えば、そんなものが司法試験における「正解」といえる。
新司法試験が、法律家になるための学識・法解釈適用能力・論理的思考力・論述能力等を試す試験である以上、法曹として備えるべき資質を表現することが「正解」といえるだろう。


確かに、司法試験においても「正解はない」という部分はある。
しかし、それは例えば、事実に対する評価で、右にも左にも論理的に成り立つような事情について答える場面のような部分に限られる。


逆に、一定の立場(学説、判例)に立って答えることを前提とするものもある。
例えば、刑法なんかで共謀共同正犯は学説上その成否について争いがあるが、判例実務は一貫して肯定説で、合格者答案で共謀共同正犯否定説を展開しているものは今のところ見たことはない。


また、ちょっと具体的な話で言うと、平成22年度の民事系大大問、設問2(2)の問題について、出題の趣旨には、以下のように書かれてある。

 小問(2)の考察では,民法第177条の第三者からはどのようなものが排除されるべきか,その上で,【事実】に示された法律上有意な事実を過不足なく指摘しながら,EがFとの関係で,民法第177条の第三者から排除すべき者に当たるかを論ずることが求められる。

民法177条の「第三者」とはどのような者なのかということについては、学説上、争いがある。
判例が単なる悪意者はここでいう「第三者」に含まれると解するが、背信的悪意者は含まれないとする、背信的悪意者排除論の立場である。
しかし、例えば、内田先生なんかは、善意無過失者であることをこの「第三者」の要件と解する(内田貴民法Ⅰ」459頁、「民法Ⅲ」185頁。)。そして、現在の学説状況については、「現在どれが通説かは判断しがたい」とまで書かれてある(内田貴民法Ⅰ」459頁)。
出題の趣旨には、「民法第177条の第三者からはどのようなものが排除されるべきか」を論じることが要求されるとだけで、上記の立場いずれによるかは問われていないようにみえる。
しかし、採点実感には、以下のように書かれてある。

 優秀(100%から75%)に該当する答案の例は,小問(1)について,甲乙の不動産の価額と被担保債権額の多寡とともに,Eの行為と被担保債権額の弁済期の先後関係を論じつつ,小問(2)について,民法第177条の第三者から背信的悪意者が除外されることと,EはFとの関係で背信的悪意者に当たるか否かを論ずるものであり,良好(74%から58%)に該当する答案の例は,小問(1)について,甲乙の不動産の価額と被担保債権額の多寡と,Eの行為と被担保債権額の弁済期の先後関係のいずれか一方を論じつつ,小問(2)について,民法第177条の第三者から背信的悪意者が除外されることと,EはFとの関係で背信的悪意者に当たるか否かを論ずるものであって,一応の水準(57%から42%)に該当する答案の例は,小問(1)について,適切な解答がなく,小問(2)について,民法第177条の第三者から背信的悪意者が除外されることと,EはFとの関係で背信的悪意者に当たるか否かを論ずるものであり,不良(41%から0%)に該当する答案の例は,小問(1)についても,小問(2)についても,適切な解答がないものである。

この採点実感をみればわかるとおり、民法177条の「第三者」の意義については背信的悪意者排除論の立場に立つことを前提にしている。
これは、判例実務が背信的悪意者排除論の立場で一貫している現時点(「論点体系・判例民法2」89頁)においては、これは当然といえるだろう(個々の判例の事案によってはその立場についても異論が唱えられているものもある)。
なぜなら、司法試験が実務家登用試験であるからだ。
そして、ロースクールは学問の探究をする場ではなく、「理論と実務の架橋」という標語に語られているように、実務を架橋する考えを教える場だ。


しかし、ここでも学問上の「正解」を前提にすると、このような採点実感はおかしいということになりかねない。なぜなら、学説上争いのある立場について、一定の立場を前提と要求しているようにみえるからだ。


そんな勘違いをした学者においては、司法試験で要求する答案がすべて同じ背信的悪意者排除論でおかしい、こんな「金太郎飴答案」は「受験対策」における弊害だ。
なんてことを理路整然と主張しかねない。


しかし、合格者の答案や上記の採点実感をみれば分かるように、司法試験上の「正解」はそうじゃない。
本問においては背信的悪意者排除論の立場が、試験上の「正解」を導くための前提の立場とされていることは上記のように明らかだ。


もちろん、すべての論点で判例実務のみ「正解」というわけじゃない。後述の通り、そこで求められる「正解」は設問との関係で相対的に決まる。ゆえに、「判例だけ知っておけばいい」みたいなものじゃない。
ただ、法律実務家を目指す者において、判例の理解とは問題解決の出発点のようなものだ。特に設問において特別な要求がない限り、やはり判例通説の考え方が出発点にはなる。
要するに、判例の理解は十分条件ではないが、必要条件ではある。
そして、何度も言うけれども、司法試験は実務家登用試験であり、法律実務家としての資質を問う試験だ。
そういった性質の試験であることを無視しすぎる学者は意外と少なくないのではないだろうか?
学問的な問題を軽視するなと思っているのかもしれない。
しばしば、「判例を変更する力が学説にはある」という理由から、有力な学説が「正しい」みたいな議論をする先生もいる。
しかし、長年実務家をやっている弁護士の先生がおっしゃられていたことだけれども、判例変更なんてそう簡単にされてたまるかと言う。
そりゃそうだ。そう簡単に判例変更されちゃ、法的安定性なんてあったもんじゃない。実際、判例変更があると騒ぎになるくらい、たまにだ。近時、判例変更をする事例が増えてきているが、それでもたまにだ。月に1回なんてペースでは決してない。
だから、有力な学説が「正しい」という前提で議論すると、実務家登用試験においては「間違い」となりかねない危険性が存在する。
これは、別に有力の学説が絶対に「間違い」で、判例実務が「正しい」ということでもない。
要は、アプローチというか、ものの考え方の出発点の問題。設問によっては、判例通説以外の第三の立場に立つことが要求される可能性はある。
ただ、実務家登用試験で「問に答える」ことを要求されるのだから、まずもって判例通説の考えから論理的に考える能力は必要だ。その上で、有力説の考えについてもフォローできればもちろん評価が上がる可能性はある。
しかし、これは例外的であって、しかも司法試験はそのような有力説の知識を問う問題ではないので、そのような知識は合格に絶対必要なものではない。必要なのは法的に論理的な考えができる能力だ。これは知識そのものとは違う。
そして、判例通説で考えるという過程を無視して、「判例通説の立場は間違えで有力説が正しい」といったことを前提とすると、上述の通り、司法試験上では「不正解」となる可能性があるということだ。


こういった司法試験の意義や制度的位置づけ、ロースクール制度の意義なんかを考えると、やはり司法試験には一定の「正解」があって、その「正解」をまずもって教えることがロースクールの教員の最低限の努めじゃないだろうか?
学問上の「正解」を前提にすると、初学者は間違った自由を手に入れてしまう。研究者のように学問の自由を体現する立場ならそれでいいけれど、司法試験の受験者は決してそうじゃない。限られた時間とスペースの中で法曹実務家そしての資質が存在することを書面で証明することを要求される。
そのことを看過してしまうと、ロースクールでは間違った「正解」を教えられるかもしれない。「答案には正解がない」という間違えた「正解」を。


まぁ、共犯について教えない先生がいるくらいだから、こんな先生がいてもおかしくないとは思う。なんせ、本業は研究者なのだから。


あ、誤解しないで頂きたいことだけれど、学問的なことや学説を軽視しろと言っているわけではないのですよ。発展的な問題なんかは、考える能力の向上において有用ではある。
つまり、司法試験上の「正解」はあるということを前提に、発展的な問題については考える能力を向上させるものとして有用だということ。
ただ、考える能力も結局は基本的な知識を使いこなせるかどうかという能力。発展的なこと自体を知識として暗記していたかどうかは、司法試験上の「正しい」答案作成において決定打ではない。
宍戸先生も同様のことを、具体的な憲法の論文問題について次のように表現している。

 事例としては、有名な判例や典型論点そのままではなく、現代的な問題や現実の政策・紛争に着想を得たものから出題されている。元ネタを知っていれば確かに入りやすい出題ではあるが、そうした知識を直接問う出題ではなく、やはり各人権の基本的知識から問題点を発見し、論理を組み立てる能力が問われている。
セミ676号73頁


話を戻すと、ここで言いたかったのは、あたかも何を書いても正解はないのだからいいという前提で出発すると、司法試験で必要とされる知識や能力について身につけないままロースクールを卒業することになってしまうかもしれないということ。


こういう考えは、ロースクールが法曹養成機関であることからすれば、至極当然に導かれるように思うのですが……
宍戸先生も、以下のようにおっしゃられる。

 本来、法曹養成機関である法科大学院の授業は、新司法試験にも役立つべきはずのものである。その意昧で、法科大学院でなされる限り、授業は必然的に受験指導的側面を有している。要は良い受験指導と悪い「受験指導」があり、そして新司法試験の出題が法曹の資質を見る上で適切なものであるならば、殊更に受験指導というかはともかく、良い指導が日々の授業の中でなされるのが当然であろう。
セミ676号72頁

受験対策は正解を前提にしなければ成り立たない。もちろん、正解は1つではなく、一定の幅はある。
しかし、その(幅のある)正解を前提に受験対策に通ずるような授業がロースクールではなされるべきだろう。
そもそも、正解は皆無といった前提では、司法試験合格が手で雲を掴むようなことになりかねない。


が、そうではないということをきちんと認識しなければならない。
そして、そういう意識はするかしないかの問題。
今すぐ開始できることを放置すると、それが当たり前になって修正がききにくい。


ロースクールの教員がこういった認識なしに、ただ「法律学を教える」というスタンスの場合、きちんと自分の力で受験対策に役立つ、すなわち法曹実務家の能力養成に役立つようにする必要がある。
しかし、それは自分自身の認識のいかんで何とでもできる。

■試験上の「正解」は問題によって異なる

以上のように、司法試験上では一定の「正解」が想定されているといえる。
しかし、注意すべきは、「判例=正解」とは限らないという点だ。
試験問題は常に判例通説の立場だけを問うとは限らないからだ。
要は、試験上の「正解」は設問との関係で相対的に変わるということ。
よくある間違いが、「判例の結論が正しい」という前提に立つ論述だ。

 
話の流れからすると、少し文章上ややこしいけれど、宍戸先生の記事を引用しよう。
宍戸先生は、ロースクールの授業における質疑応答(これは設問と答案の関係と同視できる)について次のようにいう。

 授業での質疑応答では、「正解」を答えようと心がけないこと。
 学生には「裁判官」的な結論を答えたがる傾向が強いが、「判旨はどのようなものだったか」という確認の質問とは別に、立場を入れ替えながら、実践的な分析が求められることも多い。最初からいつも「正解」ばかり考えていると、新司法試験でも先に「正解」が浮かび、それを人為的に原告と被告の立場に切り裂くことになる。
 しかし、原告側が勝つために言うべき主張、被告側として反論すべき主張をそれぞれ組み立てた上で突き合わせてみてはじめて、何がその事案の争点かが決まるのである。
セミ676号73頁

一見、上述の見解(試験上には「正解」がある)と反対の見解のようにみえる。しかし、そうではない。
もう1度重要なことを指摘する。
試験上の「正解」は設問との関係で相対的に変わるということ。
このことを意識して、注意してよく読むとわかるが、「立場を入れ替えながら、実践的な分析が求められる」場合には、その求められている問いに対して答えることが、試験上の「正解」なのである。
この宍戸先生の表現する「正解」とは、常に1つの「正解」というものがあるとの前提で書かれている(そのため、鉤括弧書きの「正解」とされている)。
しかし、それは司法試験上の「正解」とは異なる。相対的に「正解」が設問との関係で変わる以上、常に1つの結論に至るわけではない。
それだけではなく、結論を先取りして「人為的に原告と被告の立場に切り裂く」論述は、司法試験上の「正解」にはなり得ないだろう。


よくことのことを、合格者はこういう。
「問いに素直に答えるべきだ」と。


設問との関係では色んな可能性がある。そのため、判例の結論に無理矢理引きずるような論述は、論理的でも、説得的でもない論述になりかねない。
同じ事実でも、原告と被告が争うように、ものの見方が立場によっては変わる。
今年の憲法の問題なら、真実発見の価値を有するからネット上の地図情報の提供行為は表現の自由に含まれるという者もいれば、表現の自由が優越的価値を有する趣旨に遡って、そこで考えられている表現の自由の価値が希薄であることから、そもそも表現の自由の範囲外だといったり、仮に範囲に含まれるとしてもプライバシー侵害の危険性を理由に公共の福祉による権利制約の範囲内だとかいう者もいるだろう。
それは学説や判例が違うというよりも、ネット上の地図情報の提供行為に対する評価の問題であって、それは立場によって変わる。
そして、設問によっては、通説判例以外の立場で考えることも要求されうる。


そういう意味で、司法試験上の「正解」は常に普遍的なものではなく、設問との関係で相対的に変化するものだという点は注意すべきだろう。求められる「正解」が変化するに過ぎないということ。
しかし、司法試験上の「正解」というものは、やはりあるのだ。


司法試験上の「正解」があるということを、きちんと教員は認識すべきだけれども、それと同時に、その「正解」は設問との関係で変わるということをロースクール生はきちんと認識しなければ、適切な授業にも、それを活かすこともできない。
けれど、そのことを把握しておけば、授業も効率的に吸収して、受験対策に通ずる勉強をすることができるはずだ。