舌足らずで意味不明な憲法論文出題の趣旨にムキーってなります。の巻

勉強のためあまり日記を書けなくなってきた、にーやんです。


今年の論文出題の趣旨でこれだけは書きとどめておきたいと思ってたことがある。


あれ読んで、100%理解できた人はいるのか?
って科目があった。
もちろん、憲法だ。
逆に民訴はすげーわかりやすく詳細に説明されてた。民訴見習えよ青柳とか言いたくなった。
とりあえず、気になった2点だけ、文句いいます。

■明確性に関する記述

第1は、明確性に関する記述。
出題の趣旨では

 本問の法律で,「個人の権利利益を害するおそれ」等の文言の明確性が,一般的に問題になるわけではない。本問で明確性を問題にするとすれば,「生活ぶりがうかがえるような画像」が「個人権利利益侵害情報」に含まれるのか否かが明確ではない,という点である。

一応、ここで書いている内容は理解できる。
明確性が本問の具体的事案において問題となるのは、「生活ぶりがうかがえるような画像」が「個人権利利益侵害情報」に含まれるのかという点だということだ。


ただ、反対に「個人の権利利益を害するおそれ」等の文言の明確性を問題とすることができないとするのなら、その理由がいまいちわからない。
本問で中止命令が出された理由が「個人権利利益侵害情報」でいう「個人の権利利益を害するおそれ」等の文言に当たることが前提となっているとすると、本条の文言の明確性は問題になる。
で、弁護側としては表現の自由に対する制約を前提にして、当該法令の文言自体の明確性を争うことも十分考えられるんじゃないか?
このような争い方をするとすれば、法令違憲の主張のうち文言審査の話になる(芦部説を前提とするとここでは立法事実の斟酌はしない)ので、まず初めに主張すべきが明確性の話になる。


しかし、出題の趣旨を素直に読む限り、本問の具体的事情から適用上の違憲だという主張をする根拠として明確性を使うことになる。これは適用違憲の問題として明確性を問題とするということを意味していると考えざるを得ない(わざわざ法文の文言の明確性は問題になるわけではないとしていることからも明らか)。


確かに、法令自体の明確性が問題ではないことを前提とすると、本問で問題となっている行為が法令の射程外の行為にもかかわらず法令の解釈を誤って人権を侵害する形で適用したとすると、適用違憲の問題とすることもできる。


猿払事件第1審の適用違憲を論じろという趣旨なのかもしれないが、あの事件でも最高裁が判示したように法令違憲の問題設定が可能な事案だった。
また、広島県の暴走族条例と合憲限定解釈の判例を考えると、この出題の趣旨の説明は混乱する。


明確性を問題とする場合、このようにまず文言審査になるのが普通だ。
そもそも、法令の文言が明確で、適用が問題となるのは極めて例外的だし(執行者が恣意的に適用したなど)、それにも関わらず本問ではそんな特別な事情はない。
こう思うこと自体が間違えなのかもしれないが、出題の趣旨を論理的に読むとそういう理解に至るのもやむをえない。


出題の趣旨では

 本問で明確性を問題にするとすれば,「生活ぶりがうかがえるような画像」が「個人権利利益侵害情報」に含まれるのか否かが明確ではない,という点である。

というが、そもそも「個人権利利益侵害情報」の定義が曖昧不明確だから「生活ぶりがうかがえるような画像」がこれに該当するのかわからないので明確性が問題になるんだろ、そうすると、文言審査が問題になるじゃないか!!
にもかかわらず、

 本問の法律で,「個人の権利利益を害するおそれ」等の文言の明確性が,一般的に
問題になるわけではない。

という。
ここの「一般的に」という意味は、普通に読むと具体的事案から離れて文言の明確性を一般的に問題にするんじゃないってことだろう。すなわち、文言審査じゃねーって話になる(本問では「生活ぶりがうかがえるような画像」が「個人権利利益侵害情報」に含まれるかが問題になるから、定義が曖昧な法令の文言審査を検討しなければならないという趣旨なのかもしれないが)。
執行者の法執行自体を問題とする事情がほとんどないにもかかわらず、適用違憲で明確性の問題とすべきとするのか?
それなら、なぜ文言審査が問題にならずに、適用違憲でのみ明確性が問題になるのかという理由を出題の趣旨で明らかにしてほしいところ。
そもそも、このような理解自体が間違えの可能性もあるが、そのような勘違いをさせるような書きっぷりなわけだから仕方がない。



本問で明確性を問題とするなら、法令の文言の明確性を問題として、弁護側なら予備的に「仮に法令が合憲としても」として、適用違憲の問題とすべきなら理解できる。
しかし、法令の文言の明確性は問題にはならないが、適用上は明確性が問題となるとする理由はイマイチわからない。本問の場合、前者が問題にならないといえるほど明確な文言だというわけでもない。


ただ、この出題の趣旨の段落は法令違憲の主張について書き出しているから、筆者としては法令違憲に関する説明をしているのかもしれないが、この書きっぷりでは勘違いされると思う。
確かに、いきなり明確性が問題になるわけじゃなく、本問でそれを主張する必要があるということ(例えば、中止命令が「個人権利利益侵害情報」の該当を前提としているからその文言審査を検討する意味がある)を書けという意味なら理解できるが、この出題の趣旨の書き方じゃわかりにくい。



■保護範囲に関する記述

第2は、保護範囲に関する記述。

 X社側としては,表現の自由の制約と主張することになる。それに関して検討すべきことは,憲法第21条第1項が保障する権利の「領域」・「範囲」ではない。憲法上,表現の自由の保障「領域」・「範囲」があらかじめ確定しているわけではない。問われているのは,表現の自由の内容をどのように把握するか,である。

と出題の趣旨では書かれている。
いわゆる三段階審査論者は、

  1. 保護範囲
  2. 制約
  3. 正当化

という判断枠組みで合憲性を審査する。
保護範囲の検討では、問題になっている行為が憲法上の権利・自由として保護されるものかどうかを検討する。
本問でいえば、表現の自由が保護する範囲に当該行為が含まれるのか、そして含まれると解されることで初めて憲法上の問題になる。
この検討は、表現の自由がどのような行為を保護しようとするのかということを検討するものであって、言い換えれば「表現の自由の内容をどのように把握するか」ということと同じといえる(保護範囲という問題設定ではないが、従来からこのような議論はなされていた。法セミ642号67頁で宍戸先生がこのことを適確に指摘している)。
これは伝統的な学説である芦部先生の説くところの審査基準論者でも同様である。
従来の審査基準論を支持する芦部先生の弟子である高橋先生によれば、法曹時報 61巻12号3頁で

 法律による人権侵害が問題となったとき、通常次のような2段階の思考過程をたどる。まず最初に、当該法律により規制されている行為が憲法の保障する人権規定によりカバーされたものかどうかを確定する。カバーされていなければ、人権侵害はないことになる。カバーされている場合には、直ちに人権侵害とされることもあるが、多くの場合その人権規制が正当化されるかどうかという第2段階の検討に入る。

という。
「規制されている行為が憲法の保障する人権規定によりカバーされたものかどうかを確定する」作業はまさに保護範囲及びその制約の検討と同じである。
高橋先生は講演会でも

 ドイツ的な考えとどう違うかというと、まず人権の正当化のところで、アメリ最高裁判所のアプローチでは、ここは人権保障の範囲、scopeの問題、あるいはboundaryの問題ととらえ、その範囲に入ってきているかどうかという形で議論しています。それに対してドイツ憲法裁判所のアプローチでは、ここを2つの段階に区別して、第一段階として保護領域に入るのか、第二段階として国家の行為がその保護領域への介入となるのかどうか、この2つに分けて分析するという方法を採っているのです。
http://niben.jp/info/group20100114.pdf

という。
すなわち、アメリカ型が権利制約という1つの問題と捉えるが、ドイツ型はこれを保護範囲と制約の2つに区別する点が違うだけで、アメリカ型でも権利性の問題は検討するので、いずれの考えにおいても分析方法以外にこの点については違いはない*1


つまり、芦部憲法学のアメリカ型の違憲審査基準論でも、ドイツ型の三段階審査論でも、前者は権利制約のうち権利性の問題として、後者は保護範囲の問題として、問題となっている行為が憲法の保障する人権規定によりカバーされるのかを検討する。
これを憲法第21条1項が保障する権利の「領域」・「範囲」の問題とするのかという問題設定とするのか、それとも表現の自由の内容をどのように把握するのかという問題設定をするのかは、実質的には違いがないように思われる。
なぜなら、いずれにしても検討する際に、表現の自由の内容を検討する点に決定的な違いがあるとは思えないからだ。


そうすると、ここで出題者が言いたかったのは何かがよくわからなくなる。
本問で保護範囲の検討は、通常、「表現の自由の内容をどのように把握するのか」ということを検討せずには論じられないはずで(保護範囲に含まれる・含まれないはその権利の性質・内容を把握することを前提とする)、そこでは「保護範囲の検討」と「表現の自由の内容をどのように把握するのか」という検討は同等の事柄である。


にもかかわらず、出題の趣旨では、「検討すべきことは,憲法第21条第1項が保障する権利の『領域』・『範囲』ではない。」「問われているのは,表現の自由の内容をどのように把握するか,である。」という。
憲法上,表現の自由の保障『領域』・『範囲』があらかじめ確定しているわけではない」という記述からすると、三段階審査論者に対する批判にも見える。
しかし、上述の通り、保護範囲の検討は芦部憲法学においても権利制約の問題として検討すべき内容なわけで、三段階審査論にだけ批判されるようなものとも思えない。
違いを考えるとすると、「あらかじめ確定」という点が問題なのかもしれないが、この点もどのような意味で記述されたのかが不明瞭だ。
ただ、特定の学説のみを否定するということは司法試験上では考えにくい。しかも、「出題の趣旨で三段階審査論を否定した」とはなおさら考えがたく、そのように理解すべきじゃないだろう。
そこで、善解して考えると、誤った三段階審査論の理解で書くのはダメだって意味に過ぎないのかもしれない。


もっとも、三段階審査論者の宍戸先生、小山先生だけでなく、審査基準論者の高橋先生からも、こんな出題の趣旨の記述では論理矛盾じゃないかって思われても仕方ないような気がする。


2009年の問題でも叩かれてたけれど(これは問題形式について)、また憲法学者から叩かれそうな予感がする。

*1:高橋教授は「実際は2つの段階でがっちり区別してやることはできない問題です。むしろ直感的に、両側面を総合して、この場合は制限になるとかならないという判断になる気がします。ですから、アメリカの場合は非常にプラグマティックにアプローチしますから、特にそこを区別しないで、要するに範囲に入っているかどうかという、ある意味では大ざっぱな議論の仕方をしていると見ています。」という