携帯論争――浮気の有無を確認する手段としての携帯を無断で見る行為の是非。の巻

みなさん、勉強頑張ってますか?


サーセン、今日は法律と全く関係ないことを書き留めておきます。


テーマは、浮気の有無を確認する手段としての携帯を無断で見る行為の是非。




もちろん、恋人であろうが何であろうが、携帯電話という極めてプライバシー性の高いものを無断で勝手に見る行為は許されないという点に争いはないだろう(通説)。
もっとも、近時、個別具体的事情によっては、例外的に無断で見ることも許される場合があるという例外許容説が有力に唱えられている。


すなわち、例えば、彼氏が浮気をしている疑惑があるなど、そうせざるを得なかったとして他行為可能性(期待可能性)がなかったとして、責任が阻却されるというのである。


確かに、嘘がヘタなのに浮気をして彼女を裏切った責任は重大である(もちろん、嘘が上手ければいいというわけではない)。


しかし、ここでは「浮気の責任」と「携帯を無断で見た責任」とを区別して考えるべきであろう。
浮気は恋人同士において、裏切り行為そのものであり、その責任は認めざるを得ない。
しかし、その責任の果たし方として、携帯を勝手に見られる行為を許容するというのは筋違いである。
なぜなら、携帯電話には浮気行為以外の情報があり、とりわけ他の友人等から送られたメールは受信者以外に見られることを想定していないのであり、これらのメールをものぞき見る可能性が当該行為にはある。これは浮気とは無関係の者をも巻き込む権利侵害行為である(三島由紀夫手紙事件参照)。


少なくとも、浮気相手とのやりとり以上に第三者とのやりとりまで見ることになる行為はやはり許されないのであって、例外許容説は妥当でない。


自説に対しては、浮気の有力な確認手段が途絶えてしまうという批判がある。


しかし、有力な手段という理由だけで、他人のプライバシーまで侵害できる(第三者との関係)とする理由にはなり得ない。
それだけじゃなく、そもそも実益がない。
すなわち、無断で携帯をのぞき見る行為は、今後の恋人関係の信頼を破壊する行為であり、浮気行為も発覚したとなれば、ダブルパンチでお互いの信頼関係は破壊されることになる。
もちろん、その覚悟で携帯を見るのかもしれないが、それなら、予め疑わしい旨の理由を直接相手に伝えて、携帯を見せてもらうという手段を執るべきであろう。
その上で、合理的理由なく携帯を見せないというのであれば、「みなし浮気関係」を肯定して、浮気があったとすることができると解する。
このように、みなすことによって、携帯を無断で勝手に見ないでも、目的は達成することができるわけである。別れるかどうかは、その上で考えればいいことである。


しかも、相手のことが好きで別れる気が無いにもかかわらず、携帯を見る行為に出て浮気を知った場合が最悪な事態を招くことになる。
なぜなら、浮気について相手に責任があるにもかかわらず、その手段も責任がある行為であるから、お互いに信頼関係をなくす事態を招くからである。
しかも、携帯を無断で見られた行為に対して、浮気した方が逆ギレして、別れると言いだしたら、別れる気が無かったにもかかわらず別れることになってしまう。本心とは別の結果を招来しかねないのである。
したがって、無断で携帯をのぞき見る行為に実益を見ることはできない。


もっとも、このような考えに対しては、女(男)の気持ちがわかっていない、という批判がある。


しかし、それは誤解である。
もちろん、浮気を突き止めたい気持ちは理解している。それゆえ、自説においても、別れる覚悟を持って、他に有効な手段がなかった場合に、それでも浮気の確認を必要とする特段の事情がある場合、緊急避難として携帯をのぞき見ることも例外的に許容していいと解する。しかし、上記の例外許容説よりも、自説はより限定された範囲で許容するものである(新例外許容説)。


「他に有効な手段がなかった場合」であるから、話合いをした上で本人に携帯を見せるように確認するといった行為をしたことが前提である。


しかし、繰り返しになるが、本気で相手のことを好きで別れる気がないのならば、絶対に携帯を見るような行為をしてはいけない。
もちろん、気持ちとしては気になるために、携帯等の確認をしたくなるのもわかる。
しかし、その一時に気持ちのために、お互いが良い関係をさらに悪化させる行為に出るのは最後の手段と考えるべきだと思うわけである。別れる気がないならなおさらこのような手段によるべきではない。
しかも、携帯を見ても浮気をしたという確証が得られるとは限らない。
この場合が最悪であろう。信用が失墜する行為をしただけになってしまう。
その後の関係を考えた場合、そのようなリスクを冒すべきではなかろう。


上記の通り、みなし浮気関係理論を使うことにより、携帯を無断で見るという悪行を行わなくても、浮気関係をみなすことは可能である。
もちろん、実体的真実主義の観点からは「みなす」といった擬制に対してかなり強い批判がある。


しかし、当事者にとって最も重要なことは「真実」そのものではなく、「真実と思える」かどうかである。
少し難しいが、このことを敷衍すれば以下のようになる。
例えば、別れる気持ちがない場合でも、最終的には相手の言い分を信じなければ、今後、正常な恋人関係を続けることは困難であろう。
もちろん、携帯を確認して浮気の有無をチェックすればその疑惑も消滅するかもしれないが、私見としては、根本的な部分で信頼関係が構築されていない以上、それは一時のことで、類似の疑惑が絶えず生まれるだろうとみている。
そのような疑惑の連鎖を打ち消すには、当事者で話し合って、納得する以外にない。
そして、仮にそこで話し合って納得した内容が「真実」ではなかったとしても、納得できるのなら、すなわち当事者にとって「真実と思える」ものであれば、それが「当事者にとっての真実」というべきである(「実体的真実主義」との対比でいうと、「当事者的真実主義」といえる。なお、類似の考えとして「相対的真実主義」があるが、自説はよりポイントを絞ったものである)。


このような考えに対しては批判があろうが、「真実」はすべからく自分の中で生成する人生(主観的人生)の上でしか見ることはできない。
例えば、客観的真実であると信じている「1+1=2」という事実も、しょせんすべて主観の世界であり、他者の世界に介入して確認することはできないのである(客観的事実も自己を通してのみしか認識できない)。
そうだとすれば、その「真実」を自分の世界で創造していくことが建設的である。
このように考えれば、みなし浮気関係理論も単なる擬制に過ぎないのではなく、それこそが当事者的真実といえる。要するに、認識の問題である。


そして、このような考えは、「恋人関係のよりよい発展」という政策的配慮からも妥当なものといえる。
例えば、彼氏の浮気疑惑があり、気になる彼女の場合で考えてみる。
この場合、彼女の選択肢としては以下のようなものが考えられる。

  1. 彼氏に直接聞き出す(話合い)
  2. 何も聞かずに知らないふりをする
  3. 無断で彼氏の携帯等をチェックして事実を突き止める

2は問題を先送りにするだけで、何も解決していないようにみえる。
しかし、浮気をしていないと信じることで2の選択肢を選ぶこともありえよう。そして、これは決して泣き寝入りといった消極的選択ではないと考える。これも相手を信じることによって「真実と思える」気持ちがあることで成り立つ。このような場合、当事者的真実の観点からは2の選択肢を選ぶことこそ当事者のよりよい関係の維持に資するものといえよう。
もちろん、納得をしないうちに、「聞くのが恐い」という理由で2の選択肢を選ぶべきではない。要は自分自身が納得できるかどうかの問題といえる。


もっとも、それ以外では、1を選択するのが通常であろう。1を抜かしていきなり3を選ぶべきではないことについては、上述した通りである。
問題は、1を選んだ上で、納得できなかった場合である。
この場合、彼女の心理は以下のように類型化できる。

  1. 別れるつもりはないが、納得できない(あるいは不安)
  2. 浮気が真実なら別れるつもり
  3. 真実が判明していないから別れるかどうかも未定

上述の通り、1の場合、携帯を無断で見る行為はすべきではない。別れたくない以上、当該行為はそれとは反対の事態を招来しかねないからである。
では、どうすべきか。
さらに話合いをすべきであろう。その上で、最後は彼氏を信じるかどうかを決めるべきである。
そして、別れたくない気持ちがある以上、今後も付き合っていきたいと考えるならば、彼氏を信じる以外にない。
これでは割り切らなければならない場面もでてこよう。しかし、惚れていて別れるという選択肢がそもそもない以上、このように考えなければ付き合っていけないのである。
もちろん、このような消極的選択を推奨するわけではない。
しかし、世の中、惚れてしまったらどうしようもないこともあるのである(「好きなもんはしゃーない」という迷言につき、だっつぁん参照)。


2の場合については、例外的に携帯を見る行為が許容される余地が出てくる。
しかし、その場合においても、携帯を見るという手段は最後の手段である。
したがって、再度、話合いをして「納得できる真実」に到達できるかどうかを模索すべきであろう。
さらに、その場合においても納得できない場合、みなし浮気関係理論を使うことにより、別れを切り出すことも考えるべきである。この場合、彼氏の方から携帯をチェックすることについて申出があるかもしれない。が、別れることになる可能性も十分にある。


では、3の場合はどうか。
基本的に、1や2と変わらず、再度の話合いをすべきであろう。
その上で、みなし浮気関係理論を使いつつ、1か2の立場を明確にすべきである。
最も最悪なパターンは浮気の有無が気になるという気持ちを最優先して、気持ちが定まっていないうちに、彼氏の携帯を無断でチェックすることである。
第1に、浮気をしていたということになった場合、それでも別れたくないという気持ちになったとしたら、1と同様の問題になる。すなわち、別れたくないにもかかわらず、別れざるを得ないという事態を招来しかねない。
また、携帯を無断で見たことを隠し通せたとしても、その後の2人の関係は気まずいことになることは必至である。
第2に、浮気をしていなかった場合、携帯を無断で見たという責任だけが残ることになる。
もちろん、このような責任があっても、浮気の有無が判明して彼女は気が晴れるかも知れないが、当該行為がバレた場合、責任を追及されて別れることになる可能性もある。
したがって、携帯を見る行為に何のメリットもこの時点にはないのである。仮にメリットがあったとしても、リスクの方が大きいのである。


以上から、当事者の関係を良好に保つという政策的観点からみると、携帯を無断で見るという行為は、原則としてすべきではない。
ちなみに、この考えは、彼女が我慢しろというものではない。上記の考えは男女ともに当てはまるものである。


自説は、あくまで当事者が話合いを中心にした真実形成を重視した考えであり、これは真の意味で当事者主義の資するものなのである。
そして、例外的措置として許容される場合を認めたとしても、それは別れる覚悟がある場合に許される彼女(彼氏)の最終兵器といえる。核兵器を初め最終兵器は使うべきではないのである。
ただ、最終兵器があるのとないのでは立場が変わるように、例外的にこれを認めることで立場の優位性をかろうじて保持できよう。しかし、繰り返しになるがこれは例外中の例外であり、最後の手段であって、この手段を推奨するわけではない。






要するに、人の携帯はみちゃいけないんだよって言いたいだァーッ!


う、浮気もダメだよー。