そこまで言って委員会は相変わらず考えさせられる。の巻

■残虐映画やゲームは影響があるか?

残虐映画やゲームは影響があるか?
唯一見てるテレビ番組「そこまで言って委員会」で特集していた。


ほんまにおもしろくて、論点が整理できたのでここに覚書。
これを見て、自説を修正しようと思った。


これまで、残虐映画やゲーム、アニメ等によって犯罪は起こらないという主張をしてきたけれど、ここは少し修正しなければならないかもしれないかなと。
ただ、その対策として、これらのコンテンツを制限すべきだとは思わない。ここの考えは変わらない。
逆に、「これらのコンテンツさえ制限したら安心だ」という感覚のほうが危ないと思う。
以下、自説を述べる。



まず、残虐映画等が何らかの影響があるかという点については、一定の影響力が存在することは否定できないと思う。
それは逆のパターンを考えれば明快で、
例えば、手塚治虫の漫画に感銘を受けて漫画家を目指すというのはよく聞く漫画家のエピソードで、
これは正に手塚治虫の漫画という表現物が影響を与えている。


以上は、良いエピソードだが、逆に悪いエピソードもあると考えるのが自然だろう。良いエピソードしかあり得ないというのは、何の合理性もなく、説得力に欠けるだろう。
実際、多かれ少なかれ、良くない影響は与えていると思う。
ネトゲーの引きこもりなんてのは典型だろう。


そういった意味で、残虐映画等も視聴者に対して一定の影響を与えることは否定できない。
ただ、残虐映画等が影響を与えるということを否定的に捉えているわけではない。
むしろ、何の影響を与えることもできない作品に何の価値があるというのかとすら思う。そんな作品こそ社会的に無価値だと思う。


以上はそれほど一般的感覚から離れるものではないと思う。


ただ、一言もの申したいことがある。
特に子を持つ親に。


一般的にこう思う人が多いのではないだろうか?

残虐映画等は悪影響を与える
  ↓
こういうものをこどもに見せたらこどもは真似をしたりする
  ↓
残虐映画等はこどもに見せてはいけない
  ↓
残虐映画等は規制すべき


これは一定の説得力もあって、それなりに理解できる部分もある。
しかし、重要なところで思考停止している発想だ。
むしろ、問題の根本解決になっていないし、しかも規制した方がいいという社会も良いわけではないということに気がついていない。


これは考えれば理解できる話なはずであるにもかかわらず、考えることをしないので感覚的な結論を出してしまうことに原因がある。
そこで、順を追って考えてみよう。


① まず、規制すべきという点について
どのような残虐

むしろ、残虐なことを残虐として感じられることこそ重要である。
平和ボケした日本人は命の重要さに鈍感である。
これは当然の帰結だ。
それは、生きるということの対義語を理解できていないからだ。
つまり、日本では「死」ということに現実味のない社会になっているということだ。
生命を知るということは、人の死を知らなければ観念できない。
「嫌い」という感情がなければ、「好き」という感情を実感できないのと同じだ。
「好き」という感情だけではそれをそれとどうやって観念できるといえるのか。
「生きる」ということも同じで、戦中や内戦等で争いの絶えない地域社会の方が、「生きる」ということを強く意識する。
身近に死んでいく生命があることにさらされているからこそ、今ある生命の意味を考えるし実感するからだ。
といわれても、日本人はイマイチぴんとこない。それは日本が「平和」だと思っているから(ただ、これも今となっては「思っている」だけで、実際は平和でも何でもない状況である)。


こんな日本であるからこそ、残虐性を実感し、生命の尊さを実感できるような表現が大切である。
そういった表現をあえてデフォルメして、残虐でないような表現に改めようとする傾向にある日本は、この「平和ボケ」をさらに加速させてしまうことになりかねない。
日本には憲法で生命や個人の尊厳を最高価値に置いていて、それが大事だという点に異論はない。


にもかかわらず、規制したらどうなるのか?
規制によって残虐性をなくすことで、残虐な生命侵害が表現できなくなる。
これにより、生命のもろさや儚さ、尊さがあやふやにされてしまう。
その結果、感覚が鈍感になる副作用を生む。
これは、命の尊さを言うくせに、逆に命の尊さを実感できない社会にしているということになる。


極東アジアでは、北朝鮮や中国のように未だに残虐な行為を行っている国がある。日本では考えられないような人権侵害だ。
例えば、チベット民族に対する迫害はもう何十年も行われていて、これはナチスホロコーストそのものだ。ヒットラー以上に中国という国は人殺しを続けている。
ナチスヒットラーはひどい犯罪者と思っている人が多いにもかかわらず、それ以上に人殺しをしている中国や北朝鮮に対してそういう感情を持つ人が少ないのは矛盾を感じる。


しかし、それもメディアがそういった残虐性を報道せず、婉曲的に報道するからだ。
例えば、ニュースなどの表現による隠語。

全身を強く打って:
大きな欠損があり、原型を留めておらず治療不可能な状態

頭を強く打って:
頭部が陥没、欠損等で原型を留めておらず、治療不可能な状態

重傷:
大きなケガはあるが内蔵など生命維持に関する器官の損傷はほぼ無く、意識がある状態

重体:
生命維持器官などに大きな損害がある状態


こういう表現で、何となくひどい状態であるにもかかわらず、婉曲的に報道したことにしている。


だが、どれだけの人が「頭を強く打って」という表現で、頭部が陥没、欠損等で原型を留めておらず、治療不可能な状態と思うのだろうか?
「頭を強く打って」と聞いたら、たんこぶができたくらいにしか思わない人も少なくないのではないだろうか?
そういう中で、メディアは「真実を伝えた」ということにしている。
しかし、伝わらない真実に何の意味があるのだろうか?
これは表現規制すらしておらず、表現したことにしている点で悪質だ。


中国や北朝鮮のように表現を規制したのであれば、規制すべきではないという対策を講じることも可能であろう。
しかし、実質的に規制されたのと状態であるにもかかわらず、そのことにすら気がついていない国民をどうやって救うのだろうか?


要するに、認識すらできない社会では己がダメになっていっていることにすら気がつかない。
命の尊さも同じことである。
特にこの平和ボケした日本では、この点についてよく考える必要性が高い。


そもそも、規制をすればこどもへの悪影響はないと考えるのは短絡的に過ぎて、長期的に見ればむしろそういった表現に触れられないまま成長していくことのほうがそのこどもにとっては不幸なこともあるのだということに気付くべきだろう。


もちろん、これはただ残虐な表現を見せればいいというわけではない。
大人もこどもも、その表現を見て、感じて、考える、という作業をすることこそが重要だということである。
これは次の第②点にも通ずる。



② 次に、根本的解決担っていないという点について

そもそも、残虐表現を見せないままで、そういうものに対して耐性のないまま大人になることの方が問題ということに気がついている人が少ない。


仮に、こどもの頃には親が監督責任を果たすという建前で、残虐表現を見せないままにしておこう。
ただ、それだけでその子が成長したときに残虐表現の悪影響を受けたらどうするのか?
むしろ、そういう影響に屈しない人格を形成することこそが親の努めである。


一生、そのこどもを親が管理するわけではない。
親の最低限の責任は、子を社会で生きていけるようにすることである。
ただ、こどものうちは「悪影響」という建前ですべて遮って、そのときはそれで難を逃れたとしよう。
だが、それは親がそうしてくれたから、たまたま悪影響を受けなかったからに過ぎない。
しかし、これでは根本的な解決にはならない。


むしろ、こどものうちからそういう悪影響の可能性のある一般的に触れることのあるコンテンツに対する耐性というものを創らなければならない。
これが、大人になるための人格形成であり、あるべき成長の姿である。
釣りができないままひもじい思いをしている我が子のために、魚を釣って与えることは教育でもなんでもない。
それは、こどもにとって怠惰でしかない。
親は、こども自身で魚を釣ることができるようにしなければならない。


短絡的に、残虐表現を見せないという選択肢は、ただ魚を与えている親と同じだ。そこに、耐性のできる人格形成という教育はない。耐性のないまま大人になるだけである。


つまり、ただ規制して残虐表現を見せないというだけでは、何の根本的解決にはならないのである。
少なくとも、大人になって合法的に触れることのできる悪影響のある可能性のあるものについては、こどもにうちから耐性を持つような人格形成を意識的にすべきである。
この点を考えずに、「見せなければいい」と思うだけの人は思考が停止している。
しかも、思考停止に気付いていない人はやっかいだ。


こういったことすら考えないまま、ただ
「悪影響のあるコンテンツは規制して見せるべきではない」
と言う人の頭は北朝鮮と同じ感覚だ。


■「なぜ人を殺してはいけないか?」

あと、「そこまで言って委員会」でこういうテーマがあった。
「なぜ人を殺してはいけないか?」


こんなん簡単。
なのに、アホな知識人は「してはならないことはならない」とか
瀬戸内寂聴なんかははっきり「理屈も何もない」といい、仏教がそう教えてるからそうだと。
これはぶっちゃけ思考停止の発想。まぁそれで通るのなら別にいい。それで納得できる人にとってはそういう社会こそが正義なのだから。


これに対して、本質を突いているのは、野坂昭如


「殺しなさい。ただ、君も殺される」


答えはこれ。
動物、特に虫なんかだと「共食い」という言葉で表現されるくらい、殺し合いがある。
人間は殺し合うリスクを知っている。殺される可能性を。
そこで、この可能性を限りなくゼロに近づける方法を人間は編み出した。
それが


   「秩序」


である。
これは人間史上、最大の知恵かもしれない。
逆に言うと、「秩序」っていうのは人間が創り出したものに過ぎず、生物史上で言うと別に万物普遍の真理でもない。
人間世界での真理に過ぎない。


結局、「なぜ人を殺してはいけないのか?」という問いの答えは、


「自分が殺されたくないため」


である。
したがって、本当に「殺されても良い」と思う人間が出てくると、この命題は成り立たない。
現に、池田小学校事件のようなことが起こりうる。
ただ、これは不可避の例外。
大半の人はやっぱり死にたくないでしょ。
だから、殺さない。


って思ってたら、
さすが金美麗!俺と同じ答えだ。


キノの旅」っていうライトノベルでもあった話だけれど、
人を殺しても良い国は、人を殺さない。
それは人を殺したら、その人は殺されるということを意味するから。


この話も人の本質を突いているなと思った。


殺人罪に死刑という科刑が選択肢にあるのはこういう意味で重要だ。
そりゃ死刑廃止の世界で犯罪のない世の中になればいいけど、まだそんなユートピアではない。