ロースクール生の憂鬱――その① 「受験対策=悪」という間違った認識

■今回の記事

現役ロースクール生と話をすると、必ず出てくる愚痴ってのがある。
ロースクールの学者の教え方とか、試験勉強とか、合格者数どうなってんだ法務省バカヤローとか。
まぁ、ロースクール生ならどこに行ってもそういうもんだ。


だが、まぁそういう世界に足を踏み入れた以上、後は「覚悟」の問題なんだなとは思っているのです。
とはいえ、愚痴る気持ちもイタイほどわかるにーやんなのであった。


そんな、卒業して結構経つにーやんだったりするわけだけれど、ずっと思ってたことを法セミ676号の宍戸常寿先生の記事が書いていたので、愚痴はあまり好きじゃないのだけれど、今回はあえて前向きに、かつ、盛大に愚痴ろうかなとか思ってます。

■前向きな愚痴――受験対策は悪なのか?

今や東大の准教授の宍戸先生。東大が引き抜きたくなるくらいすばらしい先生なわけだけれど、そんな先生はやっぱりロースクール制度に対しても的確なコメントをしていた。


ぶっちゃけ、にーやんは思うわけですよ。
新司法試験はロースクールを卒業しなければ受験できない。
そして、このロースクール制度は従来の「試験対策」という予備校の弊害から脱却を図るということも含まれている。
そのため、文科省ロースクールに対して「試験対策」をするなという。


しかし、新司法試験は、法律家になるための学識・法解釈適用能力・論理的思考力・論述能力等を試すものである。
これらの能力はロースクールで身につけることが制度上、予定されている。
すなわち、司法試験は、ロースクールで身につけたこれらの能力を試すことで法曹の資質を問う試験ということができる。
そういう意味では、新司法試験で問われた問題というのはロースクールでまっさきに学ぶべき重要な内容(能力)だといえる。
言い換えれば、試験問題を解いて、そこで問われている能力について学ぶことこそが、最もロースクールにおける勉強に資するものだといえるんじゃないのか?
そうだとすれば、こういう受験対策につながる勉強こそが、最もロースクールの理念に合致するものだといえるだろう。



にもかかわらず、文科省は「試験対策」をするな、答案練習をするなという。


なんかおかしくね?

  • 試験対策=悪

みたいな図式を前提にしているように見える。
これってなんか手段が目的化してないか?


しかも、司法試験をはじめ、各国家資格試験はほとんど書面審理なわけで、逆説的にいえば、能力がなくても書面上で良い点を取ることさえできればやっぱり試験は合格になってしまう試験内容である。
しかし、今年の新司法試験の刑訴法で時間切れになった人はすでに実感しているとは思うけれども、答案練習をせずに自分の考えをきちんと時間内に答案にまとめることは相当難しい。
すなわち、どんなに能力が高い人間でも、書面審理である以上、書面の形でその能力をちゃんと表現できなければ絶対に合格できない。


にもかかわらず、答案練習するなだと?


受験対策につながる以上「悪」、という考えからこんなことをいうとすれば、やっぱり手段が目的化しているといわざるを得ない。
こんな指導を鵜呑みにして、何の疑問も持たず、批判的に内容を精査しないまま、授業を行っている学者がいるとすると、
「おいおい、いつも判例通説の棒暗記を批判するのに、やってることは矛盾してるじゃねーか」
とツッコミたくもなる。
もちろん、そんなことでは合格できるものもできなくなる。
なのに、合格率の低いロースクールはダメとか、こんな悲惨な現状について宍戸先生は、

新司法試験の合格率が教育改善の指標となった現在、官僚的画一性をもって「受験指導の禁止」というのは、両手を縛った上で海に飛び込ませるようなものである。

という。的確な表現だ。
新司法試験合格は法曹にとって最低条件だ。しかし、その最低条件をクリアできないようなロースクールの教育というのは、崇高な理念を謳ったところで空虚すぎる。


ずっと、そんなことを思ってた。そうしたら、平成20年度の刑事系科目のヒアリングにはこう書かれていた。

 法科大学院での基本的な教育内容は,法解釈・法理論について教示し,さらに,学生が文献を読んで理解すること,読んだものを自分で考えることが中心となり,理解した内容をまとまった形で実際に書くというのは課外の学習に委ねられている場合も多いように思われる。また,試験問題の答案を書くという方法で指導をすれば,答案練習,受験勉強になって,良くないことだと言われている。
 しかし,講義と読書を通じて学習し,自ら理解したと思われることをまとめて意味の通じる文章として実際に書いてみる訓練をしなければ,法的文書の作成ができるようにはならないと思う。学生には,自分で,あるいはグループ学習を通じてそのような訓練をしてほしい。法律家は読んで,考え,書くのが仕事であり,そういう意味で,書く練習をすること自体は,いささかも悪いことではないと思っている。


全くその通りだ!!!!


おいおい、試験委員の認識と文科省の認識は乖離してんじゃねーかYO!!!!


さすが試験委員というべきか、答案を実際に見る人の意見は説得力が違う。
しかし、未だに「答案練習は悪」と思い込んでいる学者もいるようです。
ぶっちゃけ、問題を作るのもしんどいけれども、それに対してどう解答すればいいのかということを評価しなければならない答案練習は、かなり学者の負担になる。
しかも、司法試験における合格答案、評価の高い答案というものを知らない学者の場合、参考答案を作ることもできない。
たいてい問題しか作らず、あったとしても解説程度だろう。これはそういう理由からやむをえないものなのかもしれない。


しかも、質の悪いことに、「参考答案を丸暗記しようとする勉強になるから作らない」というもっともらしい理由で参考答案を作らない学者もいる。
しかし、これはおかしな話なのはすぐわかる。
小学生になって初めて日記を書く宿題が出た。
その小学生は文章を書く練習をせずに日記を書くことができるだろうか?
美術の時間に絵を描くことになった。
絵を描いたことのない人間はいきなり描くことができるだろうか?
絵なら描けるかも知れない。しかし、それが版画だったらどうだろうか?
パソコンを使えない人に、パソコンの仕組みだけ教えておけば実際の使い方がわかるだろうか?


まぁ、そんな問答をするまでもない当たり前のことが全然理解できていない学者は意外と多いんじゃないか?
「学ぶということは真似る」ということだとしばしば言われる。司法試験における答案作成についても、これは当然当てはまる。
にもかかわらず、いきなり答案を書けというのは、指導者としての責務を放棄して自分でなんとかしろというようなものだ。


「司法試験で参考にすべき論文の答案」というものを真似ることから答案作成能力の向上が始まる。
そして、その真似るべき参考答案は書く人によって全く異なるような内容、形式を備えるようなものではない。
とりわけ、法律の文章にオリジナリティが要求されているはずもない。
最上位の合格者答案を読めばわけるけれども、すべてに共通している点は、一読してわかるような普通の考えが表現されている。
それを「金太郎飴答案」という比喩で語ると、あたかもオリジナリティが求められているのかといった誤解を生むおそれがあるが、そうじゃない。
そもそも、判例・通説に従った法解釈を通じた結論が、千差万別になっては法社会は成り立たない。
「金太郎飴答案」という比喩は、そういう誤解を与える。もちろん、そういう意図ではなく、成り立つ法解釈の枠の中で自分なりの評価をきちんとしろという趣旨なのだろう。
しかし、そういうのも参考になる答案がなければ、右も左も分からない初学者にとっては意味不明である。


では、どうしたら司法試験における正しい答案を書ける能力を書く能力を身につけることができるのか?


それは最上位の合格者答案、出題の趣旨、参考書などを見て、何を書くのか(内容面)、どう表現するのか(形式面)などを真似ることだ。
もちろん、「参考答案の丸暗記はダメ」という意見がすべて間違えというわけではない。
学者が危惧する点は、最上位の答案とされるものでも不満の残る内容があったりするわけで、そういう不満要素もすべて丸暗記によって真似てしまうという事態だろう。
確かに、答案上における内容、表現において不十分な点があるにもかかわらず、不十分なままでOKと勘違いして真似るというのは危険だ。


しかし、考慮すべき点がある。それは合格者の再現答案が限られた時間、紙数によって完成しているという点だ。
1回目の新司法試験のヒアリングで、実際に憲法の試験委員(青柳先生)がこう発言している。

執筆するのに十分時間があり,執筆するのに参考文献も読むことができる法科大学院の教員が法律雑誌に解説を書いている中にも,不適切,不十分な解説がある。そのことを考慮すると,限られた時間の中で,考え,資料を読み,書かなければならない受験生が出来なかったとしても,責めることはできないようにも思われる。

セミの解説に対してケンカ売ってるわけですが(爆)、ここで言いたいのは、限られた時間内にどこまで書けるのかということを正確に把握しなけれならないということ。


実際に答案を書いた人ならわかるだろうけど、字を書くのと読むのとでは、その分量は全然違う。
2時間あれば、かなりの分量を読むことができるけれど、書くとなるとその半分以下になる。
そういった限られた時間で書かれた内容について、不満を抱く点があるのはやむをえないといえる。なんせ、時間制限のない中で学者が書いたものですら「不適切、不十分」なものがあるくらいなのだから。
また、出題の趣旨やヒヤリングを読めばわかることだけれども、そこで求められていることを答案できちんとすべて書こうとすると、絶対に8枚の答案には収まらないし、ましてや問題を読んで答案構成してなんてことを含めて2時間で書くことなんて不可能だ。
しかし、学者の想定する「参考答案」とは、往々にしてそんなレベルだったりする(「模範答案」とでもいうべきか?)。


そのため、学者が作る「参考答案」には、まったく参考にならないものも少なくない。「おいおい、こんなの時間内に書けるわけねーだろ」的な。それはこういう要素を無視して書かれたものだから、という理由が大きいだろう。
だから、法セミの参考答案と、合格者の再現答案を比較すると、結構違っていたりする。


しかし、そもそも参考答案すらないとなると、「真似る」ことができないので、答案作成能力を身につけることは困難だ。
そういうことで、新司法試験を合格したわけじゃない学者が作るのも大変だろうけれども、参考答案は答案作成能力の向上に必要なものだと思う。


あらやだ。答案についてだけで長々愚痴ってしまったじゃない、奥さん。


学者さまに対する不平不満が存在することを前提に、その欠点をどうやって自分の力で克服すべきかってことを言いたかったのだけれど、続きは次回ということで。


あぁ、全然宍戸先生のいい話ができんかった。